薄暗い意識の中で、ぼんやりとした背中が見えた。
細身の長身。タバコの煙。振り返って覗き込んでくる濁った目。
伸びてきた大きな手の平と長い指に顔を寄せる。
グレー混じりの黒髪、目にかかるくせ毛を指で退けた。
名前を呼んだ。声にはならなかった。

――

#1


喉の奥に込み上げてきた酸味に嗚咽が漏れた。
耳鳴りのような排気口のような音が聞こえ、目を開けようとするが上手く開かない。
まるで水中から水面を眺めているような感覚だ。
徐々に戻りつつある意識の中で、全身の寒気と鈍痛に唾を飲み込んだ。

(えーっと、なんだっけ?)

状況は良くわからないが、とにかくこれはヤバイ。と心の中で焦る。

まるで水の中みたいだと思ったのは、どうやら全身が濡れていて、耳の中には生ぬるい水分が固まって詰まっているようで、目が上手く開かないのは、目蓋が腫れて重いせいである。
つまりこの鈍痛と寒気は…

(殴られて水かけられたのか)

意識がだんだんハッキリしてきた。背もたれのある椅子に座らされ、全身痺れたように感覚が鈍い。
両足は前で、腕は椅子の背の後ろへ回され、どちらも揃えて縛られている。腕の方は見えはしないが、おそらく足と同じプラスチック製の荷物紐が食い込んでいるのだろう。
頭痛で揺らぐ頭で、思い出せる範囲の記憶を掘り起こす。

いつも通り、ニキの部屋――勝手に転がり込んだ住み込み先――を出て、いつものカフェに行こうと、人通りの少ない裏道――ビルとビルの間にあるゴミ置き場が連なった、人が一人通れるくらいの細い隙間――を、障害物走の乗りでインラインスケートで滑走していた。
あと少しで大通りに出るというところ、何車線もある広い車道に往来する車の流れが見え、薄暗い路地から明るい通りへとスピードを上げた瞬間、脳天への衝撃、路地の壁に顔面から突っ込み、ゴミ袋の山へ倒んで意識を失った。

(…で、今に至る…と)

そういえば顔面が火傷したみたいに熱い。鼻血が口まで垂れて固まっている。
右目はほとんど開かないが、視力の戻ってきた左目でゆっくりと周りの様子を伺う。
どこかは不明だが、それほど広くは無さそうな倉庫の中らしい。赤錆色の壁にコンクリートの床、空の石油缶のようなものがいくつか転がっているのが見え、自分以外の人の気配がした。
顔を上げようとした瞬間、正面から怒鳴り声と共に大量の水が襲ってきた。

「…っんだよテメェ…」

水の向かってきた方向――水の入っていたであろう金属製の容器を足元に落とし、こちらに向けて何か言う人物へと顔を向け、片目で精一杯に睨みつける。
恐らくこれで2度以上は水を掛けられ、覚醒を強要され、何を言っているのかは解らないが、何やら相手は切れており、さらに何かを聞き出したいようである。
見える限りの人数は目の前に男が二人。少し離れたところに一人。
会話の中に自分の名前が聞こえた気がした。『アカネ』と。

「あー?何ゆってんかわかんねーんですけどぉー?あーゆーすぴーくいーんぐりーっしゅ?」

アカネ――茜は不愉快さを隠さず、わざと大声を上げた。

「      !      !!   !!!!!」
「だーかーら!何ゆってんのかわっかんねーんだよ!!!!!…つっ!?」

イラついて足を振り上げようとしたところで、後頭部に硬い衝撃と激痛。
目眩と気の遠くなるのを何とか持ちこたえ、前屈みに折れつつ、肩ごしに背後を確認した。
最初に確認した時に離れたところに居た人物が、いつのまにか後へ回り、何か硬いもの殴ってきたようだ。
相手の人数が増えた訳ではないと安心はしたものの、前方二名とは少し違った雰囲気に不安を感じた。

こちらを指差して怒鳴りあっている目の前の二人は、言葉はわからないが何かに焦っているようで、良く見れば服装もありふれた上下スーツの色違い、中には派手な柄物のシャツ、東南アジアか南米か、そのあたりのラテンな人種のようで、浅黒い肌と黒髪、ベルトとシャツの間に直接挟んだ銃が、言い争うジャケットの隙間から見えた。
今背後に居る人物の雰囲気はその二人と明らかに違い、外見は良くわからないが、上下グレーで頭からフードを被っている。無表情で喋らず、少なくとも小物ではなさそうだった。

囚われの身が大人しくなったからか、いつの間にか自分を無視して口論になっている小物二人を眺めつつ、自分の背後から動かない人物に意識を集中する。

(こいつをどーにかすれば、どーにかなるかな…)

頭痛のする頭で脱走の計画を立ててみるが、背後の相手に見つからないように腕を自由にするには自信が無かった。
せめて移動してくれればと願うも移動する気配はなく、こちらが少しでも怪しいと思われる動きをすれば、また容赦なく攻撃してくるだろう。また意識を失うのは遠慮したかった。
また意識を失えば、今度は何をされるかわからない。

茜は改めて自身の状況を確認した。服――作業着兼用の緩めのツナギ――には異常がない。
服の中を調べられた形跡もなく、密かに安堵する。ずぶ濡れではあるものの、個人的最悪の事態は回避されたらしい。
と同時に、自分の持っていた黒い鞄が少し離れたところ――先ほどまで背後の人物が立っていた場所――に、中身と共に転がっている事に気づいた。文房具や工具類と共に、中身の一つである手帳サイズのラップトップも床に落ちている。壊れたかも知れないが、どうやらこちらも無事らしい。
いつもの仕事――ハッキングや情報屋など――を思って心当たりはありすぎるのだが、それなら真っ先に持ち去られて調べられているであろうラップトップは落ちたままで――手にするために大金を注ぎ込む連中も少なくないのだが、それも今回の標的では無さそうだ。
それでも何か探されているのは間違いなく、ふと、最近何気なく引き受けた運び屋の仕事を思い出した。

匿名掲示板に載っていた『簡単な配達』の求人広告、それを軽いバイトのつもりで暇潰しに請け負ったのだ。
訳ありなのは承知で、もちろん中身など知らない。知っているのは何かのデータ――USBメモリ――だと言う事と、配達先から受け取った予想以上の成功報酬だけ。相手の身なりと言葉遣いと金額と、大層な黒塗りの高級車に大体の予測はついたが、特に調べたりはしなかった。その気になれば調べられる自信はあったが、そこまで興味も無く、何となく気が進まず、そしてすでに忘れていたのだ。

(良くあるあれか?その辺のチンピラに運ばせといて、後で消せってやつ?)

もしくはそれをまだ持っていると思っている依頼者の敵対組織か、それとも別の何かか、どちらにしろ面倒臭い事になったと溜息をついた。

ふと気づけば、いつの間にか口論を止めていた二人組と、背後に居たはずの灰色の人物が、視界に入る少し離れた位置でこちらを見ながら小声で何かを話している。移動の気配に気付かなかった事を噛み締めながら、一名からは目を離さないように注意しつつ、悟られないよう縛られた手首を捻ってみる。痛みはあるがどうにかなりそうだった。

「もういい!出ろ!」

倉庫の横前方にあった扉が開く音と共に男の低い怒鳴り声が聞こえ、口論していた二人組の足音が扉の外へと遠ざかっていった。灰色の人物はまだ残っている。
扉が閉まる音の後、一人分の革靴の踵を鳴らす音がゆっくりと顔の前まで近づき、下を向いたままで靴が見えた。
耳の詰まりでよくは聞こえないが、こちらは言葉が通じそうだ。
よく見えない目で姿を確認しようと顔を上に…と、その前に髪を掴まれて上を向かされた。

「あぁ?」

葉巻の煙を吹きつけられ、顔を歪めながら、髪を掴んだ人物の顔を確認する。
煙越しにだが、10cmにも満たない至近距離で見ることができた。
他の三人と同じような浅黒い肌ときつい香水、借り上げた黒髪、黄色く濁った白と黒の目。

「あ、あー、あぁ、うん。…オヒサシブリ?」

幸か不幸か、見覚えのある顔が目の前にあり、未知の敵ではなかった事に思わず笑う。

「なに余裕ぶっこいてんだ?あ?状況わかってねーのか…よっと!」
「っがっ!」

後頭部を掴まれたまま、引き付けるように顔面を膝で蹴られ、そのまま椅子ごと、コンクリートの床に叩きつけられた。

(あー、これやばいかも)
相手が予想以上にすでに激怒している状態に、椅子の重みと激痛を感じながらも低い笑いが込み上げてくる。
しばらく遠ざかっていただけの、久々の感覚。忘れていたわけではないが、体が明確に思い出す。

「なに笑ってんだよ…」

顔を床に伏せたまま後頭部を踏まれた。
顔は見えないが予想通り、さらに相手を怒らせたようだ。

知ってる顔だが名前は知らない。
数年まで突発的に不定期に行っていた、同種の人間へのゲリラ行為――不意打ちでの金銭のひったくり、武器や防具調達のための倉庫襲撃、縄張り拡張のための嫌がらせ、そういった下っ端仕事の良いカモにされていた相手グループの、当時のリーダーらしき人物だった。


茜は当時一人で行動していた。
ベリーショートにだぼだぼのツナギはこの頃からの格好だ。
その前までは長めのボブカットに細めの服、今よりははるかに『女性』に見える格好をしていた。
外見を変えたのは見た目で舐められないためと手加減されないため、この世界での防衛のためだ。

一時組んでいた相手――パートナーを失ったばかりの焦燥感と虚無感から手当たり次第に暴力行為を繰り返し、チンピラと思しき相手をを見つけては、手当たり次第に腕試しと、毎日ボロボロになるまで体を使った無茶な仕事も請け負い、運悪く体の事に気づかれての手酷い仕打ちを受けた事もあったが、他に漏らされる前に倍返しで始末した。
パートナーは父親の友人であり、現在のハッキングスキルを叩き込んでくれた師であり、恋人であり、自分を庇って亡くなった恩人でもある。誰のせいでもない仕事上での事だったが、痛みは残った。
死にたくはあったが無駄には出来ず、ただ他の痛みで忘れるためだけの暴力行為を繰り返していた。

だからそんな当時の抗争相手のことなど重要ではなく、すっかりさっぱり忘れていた。
金はあるのに隙だらけのグループを繰り返し標的にはしていたが、あの頃のチンピラにそれは日常茶飯事で、どれが誰だかまでは思い出せない。生き残っていればみんなそこそこの…

「あぁ、えらくなったんだお前ぇ?」

床に額を擦り付けたまま鼻で笑う。
あの頃の顔見知りなら、今の自分の仕事など知らないヤツも当然居ても不思議はない。

「そーだよ。今やボスだよボス!この前偶然お前見かけちゃってさぁ?最近見なかったから驚いたけど嬉しくってさぁ?」

茜の髪を掴んで上向かせ、顔を近づけ、イライラしながらも勝ち誇ったように話す。

「何お前、いまだに一人?まだ下っ端なわけぇ?ファミリーとかねーの?んでこっち逃げて来てたとか、そーゆー感じか?あ?俺今ボスだし部下とか居ちゃうわけよ?偶然見つけちゃったからさぁー、ほら、思い出したら無性に腹立ってきてさ?お前まだ一人っぽいし?なら楽勝で…ってめぇ!!」

「ねちっこい根暗なボスだと部下も大変だろ?」

話が長いので顔面に唾を吐き掛け、茜はへらへらしながら灰色の男を揶揄した。
大概一人で行動している茜も、今ではそれなりの立場にはなっているのだが、わざわざ言う気もない。
男の言う通り、以前の行動範囲である父親の経営する地下医院周辺には最近あまり近寄っていないのだが、それをこのファミリーのボスは執念深く根に持っていたのだ、当時のことをずっと。偶然見かけて追いかけるほどに。
そのボスはスーツの袖口で顔を拭いつつ、余裕の顔から今にも破裂しそうなヒステリックな顔に戻っていた。

「で、なに?不意打ちして、捕まえて、殴ってさ、気ぃすんだ?」
「済むはずだったんだけどなぁ?!なんでそんな余裕なんだよ!あぁ!?」

不安と苦痛で怯える姿でも見れればそれで満足だったのか、自分さえ現れなければその状態に一番近かったのだが、目の前の敵の人数を減らしてくれたこのボスに、茜は余裕を持った。
灰色の男はこういった事が性に合わないのか、こちらをあまり見ていない。つまり、チャンスである。

「じゃぁーもーどーすんだよ?さらに殴るか?あ?」

茶化しながら、縛られた腕を椅子の背もたれから外そうとする。
手首の肉には多少食い込むが、思い切りやればあと少しで千切れなくもない。

「…いや?もっと良い事思いついたわ。」

嫌な予感がした。目線を追って背筋がうっすらと寒くなる。
男は茜の髪を掴んだまましばらくジロジロと見ていたが一瞬止まり、何かを考え、ニヤリとした。
余裕を取り戻した様子で顎に手を当てながらゆっくりと眺め、わざとゆっくりとした口調で呟いた。

「お前さぁ、女だったのかぁ」

聞きたくないセリフだった。
最近の仲間内では当然のようにバレている事で、その日常に油断しきっていた。
そのままで居る事に何の違和感もなく、それに慣れきってしまい、自分の立場を忘れたわけではないのに、そこまで隠そうとしてもいなくなっていた。今の部屋――ニキのだが――に転がり込んでから、ツナギを着ない時も増えていた。
そこに関して油断していた。続けて殴られた時に少し服が乱れ、濡れたシャツが肌に張り付いていた。当時着ていた内側の分厚いベストもつけていない。最近着ているのは、簡素だがそれとわかるもので、それのラインが透けていた。

(やべぇ、見られた)

そう思って一瞬、茜の目が揺らいだのを相手は見逃さなかった。
この手の輩は目をつけた相手の弱みに徹底的に漬け込むのが何よりも好きだ。
趣味でも好色でもなく、嫌がらせ、屈服させ、征服感と優越感にどっぷりと浸かりたがり、そのためなら何でもする人種。
裏社会ではありふれた悪趣味の持ち主が、やっと見つけた復讐相手の弱点を利用しないわけがない。

「あぁ、そうそう、俺が欲しかったのって、こーゆー顔だわ。急に無口んなったな?あ?」

顔を寄せてニヤニヤとする相手の顔を、嫌悪感丸出しで睨む。
この後の相手の行動パターンも大体予想がついた。
屈するつもりは無いが、反撃するにはまだ少し時間がいる。

「ってぇ!」
「うるせーよ。今まで隠してたって事はさぁ、嫌なんだろ?なぁ?!」

ツナギの上半身部分が腕の方へと引き剥がされ、膝をついた状態で口ごと顎を捕まれ上を向かされた。
顎を掴んでいるのとは別の手で、ゆっくりと体を撫でられ、鳥肌が立つ。
男は数年後しの思いの遂げ方をやっと見つけた事で優越感に浸りきっているのか、茜が顔をしかめるのを見て、若干恍惚とした表情になっていった。

(きもちわりぃ)

茜にとってはこの事態は初めてではないが、それでも慣れたものでもない。
不快感を感じながらも以前陥った同じような状況のことを思い出し、あの頃とは違う感情に少し動揺もしていた。
助けに来たくせにあっさりやられた当時の恋人と、その後何も捨てるものがなかった自分と、手放したくないものが出来てしまった今の自分。
たまに思い出す、頬に触れる手の平と長い指、後ろから耳元で話す甘ったるい声、目にかかるくせっ毛の黒髪と、濁った黒い目。細いが筋肉質の体と、最後に見た後ろ姿、そこにキツい煙草の匂いと赤毛が重なる。ゆっくりとこちらを見たプラスチックのような緑色の瞳は、優しくも冷たくもなかった。

(やべぇ、帰りたくなってきた)

こんな状況にも関わらず、内心苦笑がこみ上げ、茜は少し冷静になった。
灰色男はよっぽどこの状況が気に入らないのか従順なのか、ボス男がその気になったあたりで扉付近へと移動し、扉についた小窓から無表情に外を眺めている。
チャンスは一度しかない。失敗したら撃たれて終わる。

顎を掴まれていた手が離れた。
男が目の前に立たち、にやける顔と、目にしたくないものが目に入った。

「食い千切ってやるよ…」

わざと笑って強がってみせた。それが相手の行為に火を注ぐ結果になるのも知っていた。
腕は捲られたツナギで隠れ、手首を縛る紐はギリギリまで伸び、肉に食い込む感触があった。


――

to be continued.