路地裏

公(Hemu)の創作置き場 ※一部暴力的表現を含みます。

 NY.

 セントラルパーク前の大通りも緩やかな流れに変わり、休憩時間の終わりを告げるアラームに急かされながら足早にオフィスへと戻る人々と、彼らの去った屋台やダイナーへと遅めの昼食を求める人が丁度入れ替わる時間帯。
 人通りもほとんどなくなった高級ホテルの出入り口ではドアマンがあくびを噛み締め、通り向かいにあるダイナーの従業員が煙草に火をつけて談笑するのを羨ましげに眺め、それを誤魔化すように丁度前を横切った観光用の馬車へ笑顔で会釈をした。

 暑さも和らぎ、落ち葉にはまだ早いが日陰に入ってしまえば涼しさを感じられる程度の心地よさと、まだ少しだけざわついた空気の漂う公園内の遊歩道には、親子連れやジョギング中の若者が通り過ぎていく。
 地下鉄出入り口に程近い、大通りの階段から繋がる公園内の遊歩道を少し進み、先にある緩やかな坂を道なりに辿って行くと、分かれ道手前にある大きなメイプルの木の下にベンチがある。そこに腰を下ろして顔を上げると、少し離れた橋の上――園内遊歩道を大通りから見渡せる歩道脇には、丁度休憩を終えたらしき馬車が並び始め、御者が馬に水をやりながら毛づくろいをしたり、後部座席の花やリボンを整えているのが見えた。
 遊歩道内の階段には学生らしき若者が映画スターの似顔絵とイーゼルを並べ、その横では大道芸の少年が道具を手入れし、遠くから練習中らしきアルトサックスの音色が聞こえて来た。

 もうあと1時間もすれば観光用のバスが到着し、シーズン中までとは行かずとも賑やかになるのだろう。

 そんな合間の穏やかさと静かさを味わいながら、茶色の薄めのロングコートに杖を付いた老紳士は目を細め、大型犬を連れた散歩らしき老夫婦へと、ベンチに座ったまま軽く帽子の鍔に手を添えて会釈した。

 襟元のスカーフを少しだけ引き上げ、帽子と、短く切りそろえた白髪まじりの黒髪の見える首元の隙間を塞ぎ、膝の前に立てた杖の上で両手を重ねた。
 ベンチの隣では所々色付き始めたメイプルの木が揺れ、大きな葉を鳴らしながら美しいコントラストの影をベンチに描いている。真夏であれば有難いはずのそこは、今の彼には少し寒いのかも知れない。

 ベンチの端には黒いスーツの体格の良い人物が左右一人づつ、いつの間にか立っており、ただ黙って前方を見つめるそれを見た老紳士は少しだけ困ったように笑顔を浮かべ、またすぐに馬車の方へと視線を戻した。
 
 そこから車道の流れは見えず、華やかに飾り付けられた馬車列の上へ広がる空は気持ちの良い快晴で、その空へと向かって立ち並ぶ細長い高層ビルの隙間から、そのさらに上へと登っていく一本の白い線――真っ白な飛行機雲が、透き通るような翡翠色の中をゆっくり上へ上へと向かって伸びていくのが見えた。


――

#9

 硬いマットレスの上で、タオルケットを頭まで被ったまま、隣にあるはずのモノを探して腕を伸ばす。

「んあっ?!居ねぇっ」

 伸ばした手は虚しくマットレスの上を掻き回し、茜はタオルケットを勢いよく剥がしながら飛び起きた。

 夢か幻想か願望か、隣で眠っていると思い込んでいた人物はそこに居らず、どのくらい眠っていたのか窓の外を見るが朝か夕かの判断も付かず、もしかしたら数日経っているのかと慌てて携帯端末を確認すれば帰宅からまだ数時間という所で、安心から全身の力が抜け、再びベッドに倒れ込んだ。

(帰っては居たのか…)

 倒れ込んだベッドの端に残されていた土埃と小さな葉を叩きながら、枕元で捻り潰された煙草のパックと、そばにあるソファの背もたれにかけてあったはずの上着が無くなっているのに気付き、茜は安堵した自分にも気付いて思わず笑いが込み上げた。

硬いマットレスの上で寝返りを打ち、エアコンから吹き出す冷風に薄金色の前髪を撫でられ、肌寒さに頭まで被っていたはずのタオルケットを手繰り寄せた。まだぼんやりとした眠気に抗う気もなく、開ききらない瞼のままで、眠る時には頭の下にあったはずの枕を手探りで探す。
ふと、今被り直したタオルケットは何故かするすると自分から逃げていく。
再び冷風に当てられ、冷たさで徐々に覚醒してきた意識の中に疑問が生まれた。

(エアコンつけたっけ?)

ある事に思い当たって目が覚め、寝転がったまま思い切りタオルケットを引き寄せる。と、途中でそれに抵抗するように掴む指先と腕――流れるようなタトゥの描かれたその下に、眠る時までは自分が使っていたはずの枕があるのが見え、思わず口元がむず痒く緩んだ。
いつの間にか隣にいたらしき本来のベッド所有者はまだ眠りについたばかりらしく、こちらに背を向け、当然のように先に占領されていた事を非難でもするように体を捩り、またすぐに寝息をたてた。
よほど眠かったのか、帰宅後にベッドへ倒れこんでそのまま眠ったのか、タオルケットからはみ出た服や腕には、傷と混ざった埃や土の汚れが――その下になった枕にもついていた。

(寒いなら付けなきゃいーのに…)

エアコンの設定温度に文句を言いつつ少しだけタオルケットを持ち上げると、そこから触れた寒さからか、無意識に人肌の方へと寄って来た背中が見えて顔が緩み、そこへ張り付くように自分ごとタオルケットの中へ潜り込んだ。
向けられた背中――タンクトップからはみ出た肌にはびっしりとタトゥが描かれ、毛細血管のように肌を這うそれは、所々千切れるように着いた傷痕も含めて、見慣れているつもりでも、つい見とれてしまう事が少なくない。
蹴り出されるかとも思ったがそんな事もなく、向けられたその背中に張り付くように耳を当てた。かすかに響いてくる心音に、しばらくしたらいつのまにか瞼が落ちた。眠る前には辛かったはずの体の痛みもいつのまにか引いていた。
赤い髪の先からは、いつもの煙草と硝煙の香り、そこに混じった埃っぽさと、夕方の草むらのような匂いがした。


――

#8

イリヤとセニアの居る地下室からセントラルパーク方面へ、数ブロック程離れた通り沿いにある地下鉄出入り口。
その地上と地下通路を繋ぐ階段の一番下、そこから十分も歩けば見慣れた通りが見えるはずのそこで、茜は座り込んで呼吸を整えた。
グレーのスウェットパーカーのフードを深めに被り、自身の集めたネットワーク――公共の防犯カメラや個人で設置した集音器などの情報を利用したものだが――を確認しながらなんとかそこまで追っ手らしきものには見つからずに辿り着いたが、その階段――逃げる時にも使用した――の地上から数ブロック程度は先日捕まった廃工場から近く、逆に日常的に知り合いに遭遇する確率の低い地区だった。
誰かに助けを求めるつもりも無かったが、ある程度の権力を持った知り合いが治める地区であれば、その本人と遭遇せずとも――今の状態で新たな抗争に巻き込まれようとも――その中での出来事であればどんな事であれ平常の自分に戻れるような安堵感があった。個人として守られているわけではないが、ボスの存在が確立した地区というものは彼らのルールを犯さない限りは治安がある程度維持されている。その安心感を茜は改めて身に沁みていた。

茜はカバンから携帯端末を取り出し、自分の位置とメッセージの返信の無い事を確認し、すぐにそれをまたカバンへ押し込むと、代わりに取り出した痛み止めを含んだ数種類の錠剤を口に放り込み、水無しでそのまま飲み込んだ。
動かすのにも億劫な体を持ち上げ、壁に寄りかかりながら立ち上がる。まるでメンテナンスされていない中古の家電製品のような、悲鳴のような軋む音が全身から聞こえる気がして笑いが込み上げた。それを隠すようにフードを被り直し、呼吸を整えてからゆっくりと階段を登った。


時刻はもう少してランチという辺り、徐々に人通りの増えて来たメインストリートから時折逸れる忙しない足音に警戒しながら、あと数十メートルも行けば見慣れたジャンク屋が見えるであろう通りの手前まで辿り着いた。その前にある大通り、そこを渡ればという安堵感からか焦りからか、茜は少し足早に、強引に複数車線ある車道を横切って行った。足元が多少ふらつき、多少の罵声も浴びたが、昼間から酔ったチンピラという程度にしか思われていないだろう。そこを無事に渡り切り、一息ついた歩道から車道の方を無意識に振り返った。
急ブレーキやクラクションで一瞬の注目を集めはしたが、通りすがりの人々にとっては日常風景のうちの一瞬に過ぎず、すぐにまた空気ごと何も無かったように元通りになるはずが、その日はそうはならなかった。
車道を挟んだ通りから、人相と服のセンスの悪い二人組がこちら側に何かを叫び、無意識に振り返ったはずの茜を見ると、茜と同じように通りを強引にこちら側へと渡ろうとしていた。
その二人組に面識はないが、相手が敵意を持ってこちらに向かってきているのは明らかであり、それを確認すると同時に茜は次のブロックまで全力――いつもよりは遥かに遅くはあるが――で走った。

その角を曲がれば見慣れた場所、というところで追って来る相手を振り返ると、二人組だった相手の片方はどこかと連絡を取っている最中のようで、その片割れからも動揺が感じられた。理由はわからないがその隙にと、茜は走ったことで痛みの戻ってきた脇腹を押さえながら、小走りで角を曲がった。

「わっ!?」
「あ、悪ぃっ」

追っ手を気にした状態で角を曲がった瞬間何かに体ごとぶつかり、それが声を発したので人だとわかった。
呼吸の苦しさに加えて、今更ながらの眼球の痛みに目も霞んできている。足元に落ちた紙袋をよろけながら避け、下を向いたまま愛想のない謝罪をした。背後の足音が迫ってくるのを感じ、すぐにまた走り出そうと体制を立て直そうとした時、肩にかかる圧力を感じてヒヤリとして体が硬直した。

「あの、具合悪いんですか?」
「…え?おわっ?!」
「あれ?!茜さん?!」

肩に置かれた手から知り合いの声が聞こえて体が動き、声の方を見上げた。
そこにあったのは一見バスケットボール選手のような長身と体格に金色の短髪、茜と似た碧眼を持った青年――茜の知り合いの医師、リチャードだった。
彼の勤め先はその場所からもそう遠くない総合病院であり、近くまで来れば会う可能性の高い人物の一人だった。だが彼とぶつかったそこは、マニア向けの電子機器店等のジャンク屋が点在する地区の一角であり、用が無ければ来ないような路地の一角だった。可能性が無いとは言い切れないものの、まだ近所だとは言えないそこで、まさか遭遇するとは思ってもいない人物だった。

「…大丈夫ですか?」
「あ、えっと…」

ぶつかった時、茜が咄嗟に抑えた脇腹と顔の痣に気づいたせいか、知り合いに出会った人懐っこそうな温和な笑顔から一変して鋭さを持ったリチャードの顔つきに、茜は一瞬狼狽えて言葉が発せず、隠すように片手で顔の痣辺りを覆った。察しの良い医者――しかも彼は精神科が本業の内科医だ――という人間に、自分の身に何があったか知られた時、怒られるか心配されるか、過去父親にされた顔が一瞬頭を過ぎり、恐怖を感じて無意識に顔を逸らした。
突然間近に聞こえた足音に反射的に振り返れば、背後へ近づき――通り過ぎたのは知らぬの足音で、それに気づいてすぐに見渡せば、追って来ていた二人組はまだ一つ手前の交差点の角からこちらの様子を伺っていた。その片方が携帯電話手に取り、話しながらゆっくりとこちらへ近づいて来ようとしているのが見え、背筋がヒヤリとするのを感じた。

「彼らに、やられたんですか?」
「や、ちがうちがうっ!」

茜の視線の先を追い、その過剰な反応から事態に気づいたのか、殺気は感じられないまでもさりげなく一歩前へと体を向けたリチャードの腕を慌てて掴み、ぶつかった時に彼が落としたであろう紙袋を拾って押し付けた。
リチャードがもし事情を知ったなら、追いつかれた相手と話し合おうとしかねないと思って茜は少し焦った。
助けを求めればまず間違いなく助けてくれるであろう、正義感に溢れた体育会系の人物ではあるが、今のトラブルを抱えた状態では、誰であっても知人に会う事を避けたい気持ちと、茜の今の状態を医者という人物に知られたくないという気持ちが強かった。
ただでさえこの青年は人一倍真面目で真っ正直な性格であり、知人だからと言って手助けするわけではなく、見ず知らずの他人――たとえチンピラやホームレスであっても分け隔てなく、落ちている怪我人を手癖のように無償で手当してしまうお人好し――父親であるレナのような金銭で動く闇医者とは正反対――であり、いざとなれば素手で相手を制する事も出来るはずでもあるのにそれをせず、しかも相手が誰であろうと「とりあえず話し合ってみる」を優先するような、例えるならあの『クラーク・ケント』のようだと、茜はニキと話していた事もあるほどだ。
彼の勤める病院の近くを通る時に出来るだけ鉢合わせないようにと考えていたのは、この事を懸念したのもあり、何より茜にとっては安心感と畏敬の思いも強い存在であり――兄のように慕って甘えてしまいそうでもあり――彼には彼の大事な恋人の事以外での余計な心配をいさせたくないという気持ちもあった。

携帯電話で何を言われているのか、追っ手であるはずの二人組はこちらを見ながら戸惑っているように見えた。
最初にそれを見たときは、茜を発見した報告をされ、この先でその仲間やらに追い詰められるのだろうと覚悟した。
が、それはどうやら違っていた。よく見れば彼らがチラチラと視線を向けているのはリチャード――と、その先の通りから広がる地区に対してのようだった。

茜やニキ、その一部の知人からすれば日常の一部であるが、そこから先は、外の地区の人物が簡単に問題を起こして良い場所ではないのだ。
それを知っては居たが――少し期待して居なくもなかったが、改めて目の当たりにする事も今まで特に無く、茜はつい最近あったリチャードとの出来事も思い出し、それが確信に変わって彼を見上げ、思わず口をポカンと開けた。

「そーいやこの先って、この前うちの親父がセンセー追っかけて来たとこ?」
「え?ああ、そーいえばその先かな?」

急速に遠のいていった危機感に茜の思考に余裕が生まれ、それに釣られたようにのんびりと応えるリチャードを見上げながら、茜は少しだけ悪知恵が思い浮かんだ。
彼らが気にしているのはリチャード個人――過去に彼に手当されたなどの恩がある――もしくは、この先でトラブルを起こした場合に、万が一にでもそれがある人物の耳に入ってしまう事を恐れているか、そのどちらかの可能性が強い。
有力なのは後者であるが、茜とリチャードが顔見知りであると判断された場合、見られた瞬間に撮影されたであろう画像から、彼の身元がリサーチされている可能性もある。その場合、相手のリサーチ能力によっては、彼らの今後の運命がさらに変わると言っても過言ではない。
この先の地区で「リチャードに絡む」という行為が何を招くのか、つい最近茜の父親――レナの身に起きた事を知る者なら、その後の追っ手の運命など想像に容易かった。

「変な奴捕まえたらオレんとこの親父でしたって、フィクサーとかに話行ってんのかなぁ?」
「さぁどうだろう?」

特に取り繕ったわけでもなく、自然に出てきた疑問からの会話ではあったが、茜はそれを利用してそのままゆっくりとリチャードと歩き始めた。
茜の遠慮のなさとリチャードの温和な組み合わせは、知らない者が見れば親しげな友人か、似た髪と目の色から兄弟に見られる事も珍しくはない。
茜がふざけて「brother」と呼んだのを勘違いしたリチャードの勤務先のナース達は、診察に来た茜を見るとリチャードへ「弟さん来てます」と伝える程度には違和感も無いらしく、それを面白がって否定せずに居る茜に、リチャードも大して否定せずに流している事が続き、その院内ではある意味公認の仲にまでなってしまっている。
それが茜の父親がリチャードに絡む理由にもなってしまったわけだが、それが背後から茜を狙う人物達にはどう見え、情報はどう伝わっているのだろう?と、茜はそこに少し好奇心が疼いた。

(あと、2ブロックか…)

たわいもない世間話をしながらも距離を図り、茜は立ち止まってリチャードを見上げ、にっこりと笑った。

「え?…わっ?!」
「センセー走って!!」

その笑顔に嫌な予感を感じ取ったのか、疑問符を浮かべたような顔のリチャードの背中を茜は片手で軽く叩き、茜は突然走り出した。
釣られて反射的に走り出すリチャードを振り返り、走りながらさらにその後方を確認すると、先ほどの追っ手も慌てたように走り出すのが見え、茜は思わずニヤリとした。

「…あとで、ちゃんと説明してくださいね?」
「わっ、おにーちゃん怖っ」

茜の様子を横目で確認し、並走しながらも落ち着いたリチャードの声色と笑顔に何か抗いがたいものを感じ、茜は笑いながらごまかした。彼に嘘をつく気は無いが、今回の事は正直に話すのも黙っていることも気が引ける。

ニキに話す――特にリアクションは求めていないような、半分以上一方通行なものとは違い、何故かリチャードには話すつもりのなかったことまで話してしまう事が少なくない。さすがは精神科医だと唸る事も感心する事も多い。が、だからと言って余計な荷物まで背負わせる事はしたくない。
だが、偶然とは言え巻き込んでしまった以上、今回はそうも言っていられない。
それがいつになるか、こちらが切り出すまでは催促もして来ないだろうと言う事は分かってはいるが、それが済むまで彼に対する後ろめたさが無くなる事も無いだろう。

(これ以上尻拭いに付き合わせるのもなぁ…)

信頼できる身近な大人という、自分にとって都合の良い存在として頼っていいものかどうか、他に大切なものを持つリチャードに感じる不安があるとすれば、その点だけだった。彼の大切なものと比べれば、こんな事はただの「厄介事」であり、考えさせるのも気が引けるような「余計な事」でしかない。
ただの患者の一人のつもりでも、「身近な大人」という都合の良い存在として自分の心情の整理まで手伝わせて良いものか――それをこちらが望めば嫌がらずに手助けしてくれるだろう事はわかっているだけに、ここまで巻き込んでおきながらもまだ「巻込みたくない」と思っている自分を自覚し、茜は自分に対して苦笑した。

「何笑ってんですかー?」
「べっつにー!」

緊張感のないやりとりをしながら、ちらりと肩ごしに後ろを見れば、しっかりと追ってくる二人組が見えた。
このまま客観的に見て「チンピラに追われる者」として前方の大通りを渡りきってしまえば、おそらく自分の思った通りの事が起こるだろうという自信はあったが、それにはリチャードが必要不可欠だった。

「この先って、この前のところですよね?」
「ぴんぽーん♪」

ここまで同じ状況を作ったとなれば察しの良いリチャードが気付かないはずもなく、クラクションの鳴り止まぬ大通りを渡り切ったあたりで茜は少しだけスピードを落とした。

(あと1ブロック)

数日振りというには懐かしくさえ感じる見慣れた町並みに安堵感と少しだけ罪悪感を感じながら、振り返って後方の二人組が大通りを渡ったのを確認し、追いつかれるギリギリのところで再びスピードを上げる。
と、数秒後、後方から怯えたような呻き声が聞こえ、ゆっくりと足を止めたリチャードは、隣でいつのまにか後向きに走っていた茜を見て、一息つくようにため息をついた。

「で、こーなる…って、もー、やっぱり追われてるんじゃないですかぁ」
「省エネっしょ?」

足を止めてリチャードの隣で額の汗を拭い、数人の巨漢と黒服に取り押さえられた二人組のチンピラを見確認すると、茜はそれを馬鹿にしたように鼻で笑った。

少し前、同じようにリチャードと歩く茜を見て何かを勘違いして逆上した父親のレナが、追手の二人組のように取り押さえられてどこかへ連れ去られたのが、逃げていた通りのすぐそばだった。
その日は一日レナに対しての憤りと面倒臭さに腹を立てていたが、それが無ければ今回の思いつきはなく、茜はその点でだけひっそりと一瞬だけレナに感謝した。

その時も今回も、取り押さえる側が誰なのかは知らない――見かけた事くらいはある――が、そのうち何人かには、仲間内では有名な「蜥蜴のタトゥ」が入っているかもしれない。
茜はリチャードを見上げながら、その背後に居る人物――「蜥蜴のボス」であるリチャードと共通の知人「フィクサー」の顔を思い浮かべて口元がむずむずと緩んだ。
取り押さえられた二人組がその後どうなるのか、それは少しだけ興味本位として気になった。

「まったくもー…って、あれっ…!」

リチャードが茜の方を向いたとき、隣に居たはずの茜はすでにそこにおらず、振り返ると先程までの進行方向へとすでに向かっているのが見えた。

「ごめんねお兄ちゃーん!今度ちゃんと説明するからー!」
「それよりも怪我、ちゃんと治療してくださいねー!?」

やれやれ、とでも言いたげなリチャードに手を振って、茜は小走りに細い道へと消えた。
彼が追わないのは、茜の怪我がまだ走れる程度のものであり、かと言ってそれ以上の無茶もしないだろうという判断からか、本人から「説明する」と言われた以上詮索も無用であると判断したからか、信頼されているのとは違っていたとしても、どちらにしろ茜にはそれが心地良かった。


茜が小道へ入る寸前、リチャードへ「お兄ちゃん」と言ったのが聞こえたのかどうか、巨漢の下からこちらを見ていた追っ手の片割れ――携帯電話を手にしていた方の顔が、怒りから一変して青ざめたのが見えた気がして、それには少しだけ優越感が沸いた。


――


大通りから外れ、歩き慣れた細い路地裏を数回折れた場所にある飲食店らしき裏口の階段の手すりに体を預け、そこから滑り落ちるように座り込み、そのまま階段に横になった。

「いっ てぇ」

貧血からの目眩か、思い出したように襲ってきた痛みにフードごと頭を抱えて蹲り、茜は顔を顰めた。
逃げていた時に一度スピードダウンしたのはわざとでは無かった。
が、結果的に、走ることで呼吸の粗さも冷や汗も誤魔化せ、リチャードにも悟られずに済んだ。
顔色の悪さも痣と包帯とフードで半分以上は隠れ、その上笑ってしまえば、多少の傷が見られていたとしてもそれ以上追求されないのはわかっていた。

「あー…?」

痛みに遠のく意識の中で、換気扇の音に紛れて小さな振動音が背中のカバンから聞こえた気がしたが、それは頭上すぐの扉が開くと同時にかき消された。丁度ディナーの仕込み中なのか、忙しないキッチンの音と空腹を刺激する香ばしい匂いが辺りに立ち込め、地下室を出てから水しか口にしていなかった事を思い出して強烈な空腹感に襲われた。
目眩の簡単な原因に思い当たって苦笑し、あともう少しでいつものアパートが見えるという所で茜は気を失った。


目を開けると、薄汚れた天井と消えかけの安物の蛍光灯が見えた。
いつの間に眠ってしまったのか、薄汚れた窓からの日差しは強くない明るさで、早朝か夕方かはわからない。
硬いパイプベッドにマットレス、潜り込んでいた高級とは言えない薄い掛け布団からは、少しだけ消毒液の匂いがする。
すぐ横のテーブルにはラップトップとヘッドホン、吸殻で溢れそうになっている灰皿、飲みかけの瓶ビールと、小銃。
隣で動いた気配から、ニコチンと硝煙の匂いに干し草が混ざったような埃っぽい匂いがした。
掛け布団を少しだけ持ち上げると、布団に潜り込んでボサボサになった赤毛と、その隙間から覗く寝顔が見えた。

――

#7


「おわっ!?」
「茜?へーき?」

茜は地下室のベッドで勢いよく飛び起き、ベッドの横に居たイリヤが心配そうに覗き込み、若干上気したように赤くなっている茜の額に手を当てた。

「…あ、や、何でもない。」

きょろきょろと首を振って地下室を見回し、はははっ、と、誤魔化すように笑った茜を、イリヤとセニアの二人は訝しげに眺めた。

「あ、うん。あー…帰る。」
「いーの?へーき?」

睡眠不足が解消されて体力も戻ったのか、ベッドから降りた茜はテキパキと身支度を済ませた。

「ずっとここに居ればいいのに。」

逃走中に奪ってきたスウェットに着替え、自分の荷物を確認している茜を見たセニアが不貞腐れた様に呟いた。

「いや、そーゆーわけにいかねーだろ…」
「あの赤毛が気にするとは思わないけど?」
「ニキんとこに居たいのは俺だから、そーゆーのは良いんだ。」

当然の事のように笑って応える茜を見て、セニアは少し苛立っているようだったが、イリヤが横から腕を絡ませて来た事で顔を逸らした。

「危険になっても助けに来ないし、心配もしてなさそーだし、なんで良いんだよ…」
「シィ、茜また、ここに来てくれなくなるよ?」

独り言のようにぶつぶつと不満を口にするセニアがイリヤの言葉で黙って顔を逸らし、茜は苦笑した。

「あいつはそれで良いんだよ。あいつは、俺の替わりに死んでも良いとかありえねーから。」

茜はそう言って笑って手を振り、そのまま部屋から出て行った。

茜がニキの部屋へ転がり込んでしばらく経った頃、茜はニキへ一緒にいるのは邪魔かと聞いた事があったが、特に気にもしていないのか、面倒くさそうに「好きにすれば良い」と言われた。自分も好きにするので、好きにしたら良いのだと。
消えろとは言われなかった事が嬉しかった。居ても居なくても良い存在なら、そこに居ても良いのだと思った。
誰にでも同じ反応をするのかも知れないが、そこまで踏み入った関係を求めているのが自分だけなのであれば、そこは好意を持つ者にとっての特等席だ。
その特等席である隣への競争率も無く、ニキにとってはただ都合の良い相手なのだとしても、居たら便利な存在になれたのなら、居ないと少しは不便なのかも知れない。その自分不在での不便さを感じるのならと考え、茜は少し顔がニヤケた。

ケイとの記憶は甘くて重い。さっきまで居た地下室の天井はそれに埋め尽くされていて、未だに少し呼吸しづらかった。
それがニキの事を考えたら笑いが漏れて楽になった。

(ニキは俺のために死なない)

二人の共通点は無く、丸で正反対であり、なぜその真逆の人物にここまで夢中になれるのか自分でも疑問だったのが、さっきまでのセニアとイリヤとの会話で思い当たった。
たとえ茜が拉致され、拷問を受けるような人質になり、その脅迫状がニキの元へ届いたとしても、ニキは我を忘れて取り乱したり、勝算なくそこへ向かったり、無謀に飛び込んできたりしないだろう。
ケイのように人質を優先にして勝算無く丸腰になる事も、危険人物の拘束を怠った結果命を落とすような事も、レナのように我を失って証人を狙撃してしまう事も無く、全てが終わったあとで捕まった事を馬鹿にして笑うくらいだろう。
気まぐれや思い付きで予想不可能な事になったとしても、お互いに冷静に判断し、背中を預ける事も置いていく事もできる。置いていかれたとしても、ひとりでどうにかするだろうという根拠のない確信と、お互いにそれを見捨てた事として感じないであろう安心感がある。
気遣いや優しさという名の同情や哀れみで惨めになったり、後ろめたさを感じる心配も無い。
守られる事もなく、守る必要もなく、お互いに必要となれば躊躇わずに命を奪う事も出来るだろう。
好んで危険に身を投じているようで無駄死にする気も無く、誰のためでも自分のためでもなく、ただそこに在る。
誰とでも同じように接し、言葉や態度以外の他意も無く、裏表もなく、自然体だ。その隣でなら自然体で居られる。

(だからニキなんだ)

茜は地下室から繋がる地下通路を抜け、地上への階段を登った。
久しぶりの陽の光に目を細め、無意識にニヤケていた顔の痛みと視界の違和感で、自身の顔の片側、片眼を含めた部分へ巻かれた包帯の存在を再確認し、スウェットのフードを深めに被った。
数時間置きに飲み続けている薬のせいでの多少の怠さも含め、茜は自分が思っていたよりも体が自由にならない事を感じ、今まで居た地下通路の方を見て苦笑した。

(今戻ったらかっこわりーな…)

地下通路への入口から数メートル歩いた細い路地裏の壁に背中を預け、そのままズルズルと滑り落ちるようにしゃがみ込んだ。飲食店のゴミ置き場と排水管に挟まれたそこなら、動かなければメインストリートから覗いても簡単には見つかる心配もない。見つかったところでホームレスに間違われるくらいだろう。

セニアとイリヤに甘え、もう少し居た方が良かったのかも知れないが、長居をするには空気が薄くて重く感じた。
目を閉じて呼吸を整え、出会った頃の二人を思い出し、それと同時に少しだけ後ろめたさが沸いた。


――

ケイの葬儀の後、茜はレナに連れられ、チャイナタウンにあるレナの知人の経営する漢方薬品店を訪れた。
店主はレナを見るとすぐに店の奥にある地下室への階段を示し、そこを下ると、商品の在庫の並んだ倉庫のさらに奥の扉へと案内された。
清潔だとは言えないが不衛生とまでは言えない充分の広さのあるそこには、正体のわからない植物や粉の入った小瓶、医療用器などが実験室にように机に並び、壁にはライフルや格闘用の武具――護身用のためなのか商売用のためかわからない――が立てかけられていた。
内側から厳重に鍵を掛け直した店主は、その更に奥の一角のカーテンを示すと一礼をして下がって行った。
茜がレナを見上げると、レナは手招きをしながらカーテンの中に入り、茜もそれに続いた。
そこはカーテンの外側とは違い、簡易的ではあるが生活感が感じられた。窓のないコンクリートの四角い空間に薄い明かりの中、あるのは壁際に二段式のパイプベッドと一対の椅子とテーブル、テーブルには数冊の本が置いてあった。
ベッド上段で薄い毛布がもぞもぞと動く気配があり、レナが声を掛けると、毛布の中からこちらを伺うように開いた隙間から少しだけ二つの顔が見え、すぐにまた一つの毛布に隠れて動かなくなった。

それがセニアとイリヤとの初対面だった。
いつからなのかはわからないが、二人共、茜を拉致したスーツの男のクルーザーの中で鎖に繋がれて居たのをケイが見つけ、事が起こる前にケイがレナに保護するように頼んでいたらしい。
それが寒波の前日であり、保護した時の二人は言葉もろくに話せない状態で無抵抗だったと言う。
ケイはご丁寧に里子の申請まで済ませており、茜が葬儀後に車の中で確認した書面には、既にレナが法的書類上での保護者となっていた。レナはそこまで了承した上で二人を保護したわけではなかったが、何かを決めた上で借りを作りに来たケイの頼みを断る気にもなれず、茜はあとで聞いた事だが、そのケイを見た時にレナは、ケイが自分の居ない間に茜を連れてNYを出てしまうつもりなのかも知れないと思って居たらしい。
細かい事情は聞かなくとも、何か察していたのかも知れない。

ケイがCIAを退職し、自分の過去へ決着を付け、茜との関係も全て終わらせた上でNYを離れる覚悟をしていた事は、茜が入院中に訪れたケイの元同僚から聞かされた司法解剖の結果で納得できた。

ケイは末期のガンに犯されていた。

レナの医院へ定期的に訪れていたのは薬の受け取り――マリファナ購入の為であり、茜もそれは知っていた。
そういった目的の通院者や知り合いは珍しくなく、それ自体は疑問にも思わなかった。ただ、隠れるように吸って居たのを偶然見かけた時、それを見られたケイが気不味そうに笑っていたのを見て不思議に思った。
購入しているのだから自分で使ってていても不思議はない。だが隠れてまで吸うような他の中毒者とは違い、転売目的にしろ使用目的にしろ、ケイにはその状況が似合わないような違和感を感じた。
レナが茜にケイには深入りするなと言っていた理由は、今回のような結末までは予想していなくとも、ある程度の予感があったせいかも知れない。


ケイは茜の拉致された場所へ向かうまでの間、退職後から進めていた事案の手続きをほぼ終えていた。

退職後、ケイは最初の事件で監禁されていた子供達の出生先を探し、可能な限り家族の元へ戻そうと奔走していた。
だがそのほとんどが拉致や誘拐などではなく、貧困国で合意の上譲り受けてきた子供であり、その謝礼金を受け取っている親たちからは戻すことを拒否された。家族の元へ戻すことが最善と考えていたケイにとって、それは少なからずショックを与えた。その後子供たちの受け入れ先を探し出し、ようやく見つけた施設へ、茜の拉致現場へ行く途中の車内から、退職金を含めた貯金のほとんどを送金した。
そして自分の保険金の受取人として、チャイナタウンの地下室へ保護した二人を指定、レナをその後継人としていた。
まだ保護して間もないイリヤとセニアは名前以外、出生元も含めた存在自体が全て不明であり、その反応や様子から、他の子供たちと同じ施設へ保護するのはしばらく困難だろうと考え、しばらくレナに託す事を書面で遺していた。

そして、それらがほぼ遺言状として残されていた事も茜は腹立たしかった。

茜が拉致された時、ケイは全て把握した上で自分の死を覚悟した…というよりは、まるでそれを待っていたかのような、望んだ結末を手に入れられる安心感から来る冷静さのようなもので満たされていたように茜は感じた。
つまり、あの場所で自分を庇っての結果に安息を求めていたのかも知れず、その理想の幕引きのために自分が利用されたのだと、万が一を考えて付けられたピアスの発信機の事も何も知らず、恋人を庇ったその前で息を引き取る事を理想の最期と受け入れていたのなら、どれだけ自分勝手なシナリオだろう。世間で物語にでもなれば美談にでもなりそうな話だが、そこには怒りしか沸かなかった。

茜がもし拉致されず、無事に寒波を越えていたとしたら…という話も入院中に聞いたが、それも勝手な話だった。
ケイは延命治療を放棄しており、鎮痛のためのマリファナを使用するのみで、寒波後に向かうはずだった場所――スイスの郊外に住居を購入していた。そこで一人で余生を過ごすつもりだったらしい。その理由が、茜のためだったと聞かされた時には思わず耳を疑った。
徐々に弱っていくところを見られたくなかっただの、離れる理由を話したら悲しませるだの、重荷を背負わせたくないだのと、どれも茜を慰めようと語られた話かも知れなかったが、別の結果であったとしても蚊帳の外である事には変わらず、火に油を注ぐように怒りは増した。

数年経った現在でも、茜がまだ思い出すだけで少しイラついてしまうのは、ケイが「茜のため」と思い、周りも「茜のためだった」と言い、それのどれもが「茜が望んだ事ではない」からだ。
それもきっと本心から「茜のため」と思っていたのだろうが、それが不愉快だった。
ケイがあくまでも自分のために動き、それを納得した上での事だったのならそれほどでも無かっただろう。
もしそこに、目の前で最期を見せる事によって一生忘れさせない束縛感も含まれているなら大成功だと笑えるのだろうが、ケイの性格上、後腐れなく次に進めるよう願うとか、そんな事まで言われているような気がして、突発的に思い出しては頭から離れなくなるその声を消そうと暴れ、気を失う程に何かへ打ち付けた頭部から大量出血し、レナの医院で目が覚めた事もあった。

子供たちやイリヤやセニアへの対応については称賛に値するのかも知れない。
ケイ自身も保護施設出身であり、成人するまでに何度も変わる里親の元を転々としていた経験があると聞いた事もあり、成人するまで安心して暮らせるようなホーム作る事が最初からの目的だったのかもしれない。茜自身もレナの養子になっていなければ、あの子供たちと同じようになっていたかも知れず、それを含めて考えた上での行動かどうかは分からないが、それに対しての不満は感じなかった。ただ、ケイに庇って貰った感謝や、彼の分も生きようなどという周りから言われるような気持ちは少しも沸かず、頼んでもいないのに丸腰で助けに来て勝手に目の前で死んだ、という事実しか感じられず、茜はケイの倒れてくる瞬間を思い出すたびにイラつき、ただ暴れたい衝動に駆られた。

ケイの葬儀から数週間後、茜は当時頻繁になっていたマフィアのルーキー達による抗争地帯へと流れ込み、銃撃戦へと発展したビルの3階から窓を破って逃げ、屋根を伝って裏通りへと転がり落ち、全身血まみれになって発見された。幸いにも発見したのは外出リハビリ中のイリヤとセニアで――二人はレナがチャイナタウンの部屋に通い、多少慣れた頃にレナの医院の上の住居へと移されていた――二人に付き添っていたレナの知り合いからすぐにレナの医院へと運ばれた。それまでも何度か大怪我をして運ばれた事はあったが、その時のそれは外傷による出血ではなく、落ちたショックで受けた腹部への強打による胎盤の流出だった。
それが何を意味しているのか、それを告げるレナの顔を茜は忘れる事が出来ないだろうと思った。
茜の拉致された前後から考えてみれば、相手への心当たりは一人ではなく、もしその事故結果以外で知るか気づくかするにしても、その存在を受け入れる事は自分には出来なかっただろうと思い、血の気が引くと同時に少し気が楽になった。
そしてそれ以来、茜はどんなに危機的状況になったとしても、自分の意識がある限り、負傷時にレナの医院へ近寄る事はなくなった。

その茜を発見した時の状況がよほどショックだったのか、何か気になることでもあるのか、イリヤとセニアはそれ以降茜を見つけては付いて回るようになった。
茜も初めの頃は多少戸惑い、ガラの悪い連中と居るところを見つかっては面倒だと軽く巻いたりもしていたのだが、二人はそれが面白かったのか、しばらくするとそれは段々とエスカレートし、そのうち三人で行う難易度の高い逃亡者と追跡者のゲームのようになっていった。
その頃にはイリヤとセニアも片言ながら言葉を覚え、レナや茜以外の他人と接することにも慣れ、数ヵ月後には問題なく生活できると判断され、ケイの保護した他の子供達と同様のホームへ移されることになった。

茜はレナに誘われ、イリヤとセニアに手を引かれ、あまり乗り気では無かったが興味が無いわけでもなかったそこに、二人の見送りついでに訪れた。
ケイの資金によって改築中のそこは元々郊外にあった広い農場だった。農場自体の所有者は数年前に病気で亡くなり、その人物と親交のあった近所の教会の牧師がその後の管理者として当人から譲り受けたのだと言う。訪れた時にはその古い小さな教会の横に、小さな校舎が建設中だった。
子供達のホームとして仮運営しているのは元々農場にあった住居と、そこに隣接していた小さな工場を改築して繋げたもので、その時に生活を必要としていた人数には十分な広さがあった。
ケイの事件で保護された子供達以外にも、そこを管理していた牧師を頼って来た身寄りのない者も少なからず生活しており、子供達の世話も含めた農場と建設の手伝いなど、そこで働く者へは居住と食事が与えられていた。
作物や牛の世話は全員で交代で行い、資金のために売りに出してしまった馬も近々買い戻せるのだと、牧師は悲しげに笑って十字を切った。
牧師と共に農場や施設内を見て回る間、そこの住人から好意的なもの以上の歓迎と感謝、そして追悼の言葉を受けながら、ケイの考えていたらしき計画は、茜が想像していなかった程度には壮大なものだったと知った。
レナが牧師と手続きしている間、茜はイリヤとセニアをそこの従業員に引き渡し、二人と一緒にさらに中の案内をと促されたのだが愛想もなく断り、レナの車に戻って膝を抱えて座った。
しばらくしてレナが車に戻ったが何も言わず、数時間先の自宅まで二人共そのまま無言だった。
窓の外に見えたその場所は、どこを切り取ってもケイに対する感謝に溢れていて、茜は自分だけが異質に思えた。


イリヤとセニアの二人を送り届けた約一週間後、茜はレナが自宅に居ない時間――診療所が混みあう時間帯を見計らって、自分の部屋を訪れた。
抗争中に知り合った人物の紹介で受けた仕事のため、当分は戻らないつもりで荷物をまとめていた。
レナの住むそこから生活圏を移動するつもりは元々あったが、機会的にも丁度いい時期だと感じていた。
必要なものを確認したボストンバッグを担ぎ、仕事場所として借りたモーテルへ向かうタクシーを拾うためにメインストリートへ出たあたりで、誰かにつけられている事に気づいた。
少し走って脇道に隠れ、相手の足音が近づいたところでボストンバッグを叩きつけるつもりで振り上げたが、そこに居たのは農場へ送り届けたはずのイリヤとセニアで、バッグを振り上げた状態の茜に同時に飛びつくように抱きつき、二人を抱えるような格好で茜は仰向けに倒れて唖然とした。

まだ数日程度しか生活していないにもかかわらず、二人にはその場所が息苦しいと感じ、しばらく暮らしていたレナと茜の自宅へと戻って来てしまった――どうやってかは言わなかった――が、茜は留守でレナは診察中、もし医院に入れたとしてもレナに怒られるかもしれないと思い、戻ったは良いが途方に暮れ、自宅付近をうろうろとしていた所で茜を見つけて追いかけたのだという。
仕方なく茜は自宅へ引き返し、診察の一段落したレナに二人を引渡し、今度は誰も着いて来ない事を確かめてからタクシーへ乗り込んだ。二人にそれほど懐かれていた事にも驚いたが、レナが怒らず笑って二人の手を握り、それが少しだけ昔の自分に重なったようにも見え、それも振り払うように逃げるようにそこを去った。
その翌日には、レナから連絡を受けた迎えと共に大人しく農場へ帰って行ったが、数週間後には今度は茜の宿泊するモーテルへと直接訪ねて来て、茜を驚くと同時に感心しさせた。
感心はしたが予定外の宿泊者が居る事により目立ってしまい、モーテルからは余分のチップを請求され、その翌日に控えていた取引の相手からは取り分を減らされ、仲介役からは苦情と小言を聞かされる羽目になり、流石に他の仕事にも影響が出ると困るので二人を再びレナの所まで送り返した。

そんな事が何度も続き、そのうち茜は二人が小さなラップトップを持ち歩いている事に気づいた。
どこで入手したのか、それを見られた二人は渋々手の内を明かした。
茜の居場所を突き止めたのは簡単な事で、ただ単純に携帯電話のGPS電波を追い、あとはヒッチハイクで移動しているだけだったのだ。その単純な事で、茜は自分が、自分のGPSの存在を忘れていた事が一番ショックだった。
抗争を繰り返し、久々に情報売買の仕事を請け負った時、携帯電話も新たに購入しており、ケイと居た時には当然のように切っていたその機能をすっかり忘れてしまっていたのだ。
それがどれがけ危険なことか、その時まで何事もなかった事が幸運としか思えず、さらにそれがケイに教え込まれたことをだと思い出して頭に血が上るのを感じた。
茜はその後、その時の二人と別れてから、数ヶ月ほど完全に消息を絶った。


ごく稀に裏通りで抗争に参加している姿が目撃される事もあったが、その姿はそれまでの容姿――ラフな服に長めのボブとは違い、角刈りに近い短髪に作業用のツナギを着た姿で、知り合いであってもパっと見だけでは気づかない姿になっていた。
それから再び何事もなかったようにレナの元を訪れた時、すでに何度目かはわからないが当然のようにそこに居たイリヤとセニアの二人を連れて、またそのままどこかへ消えた。



ケイの地下室へ初めて二人を連れてきた時、自分も最初はきっとこんな風に目を輝かせていたのだろうと茜は思った。

その頃にはケイへの怒りは消えてはいなかったが薄れ、行く場所のあてが思いつかなかった時に自然とその地下室に足が向き、その頃にしばらく、その地下室で茜は一人で過ごしていた。
ケイがそこを去ってからそのままになっていた地下室は、茜がそのドアの前に立つと同時に開錠され、その他の場所もすんなりと開錠されていった。それに驚かなかったのは、ケイから受け取った封筒にあったUSBを自分のラップトップに差し込んだ時から知っていたが、実際に動かすとなると少しだけ重く感じた。
そこで数日過ごす内、抗争中に通常より執拗な接触の仕方をされ、その気持ちの悪さから、逃走中にあった清掃会社のクリーニングカートから盗んだ作業服に着替えて元の服を捨て、地下室に着くとシャワー室にあった鋏で髪を切り落とした。

その場所を、イリヤとセニアの二人も使えるように、茜は少しだけセキュリティに変更を加えた。
流石にケイもそこまでは想定していなかっただろうが、使わない事にも、独りきりで使う事にも後ろめたさが離れず、それが最適な解決方法な気がした。
だがたとえそこが出入り自由であっても、あくまでも二人の家はあの農場なのだと、茜は念を押した。
居心地の悪さを感じる気持ちは茜にも経験がありわからなくもないが、外との繋がりを絶って二人の世界に閉じこもってしまう事を良しと思えるほど、茜も二人も大人ではなかった。二人もそれを感じて頷き、あくまでも『避難所』としての『秘密基地』だとして納得をした。
茜自身も長期間長居する気持ちにはなれない場所であり、居心地が良いから使っているわけでは無い事も伝えた。

二人はその地下室の元の持ち主がケイだと知ると、その人物像や操作方法、茜の仕事内容にも興味を持ち始めた。
語るほど知っているわけでもなく、語りたい気持ちにもなれず、あまり多くは語らなかったが、茜とケイが通常の友人関係以上の仲だった事は、そこで共に過ごすうちに自然と悟られた。
そのうち二人は帰れと言われなくとも農場やレナの元へも戻るようになり、農場を無断で逃げ出すことも、作業や教会での授業を欠席する事も減った。
ただ茜が通常の怪我ではない状態で地下室へ来た場合や、その状態の時に二人がそこへ訪れた場合には、先に茜が地下室を出て行くまでそばを離れなかった。

その時に茜が必ず飲んでいた白い錠剤――小さな黄色いプラスチックの容器に入った薬――を、服用して眠り、数時間後にアラームで起きてはまた服用して眠る、というのを繰り返し、数が足りなくなると少し焦ったように見えたのが気になったのか、それを見たイリヤは、薬が減るとどこからか同じ容器の薬を補充して来るようになった。
簡単に手に入るほど安価なものではなく、出処の検討は付いたが、茜は黙ってそれを受け入れた。


――


(まさか空容器持ってって同じのくれって直接頼んでねーだろな…)

茜は念の為に持ってきた薬の容器をポケットから取り出し、その容器に赤いペンで直接書かれた薬の名前と消費期限、その筆跡を見て爪で軽く引っ掻いた。
その薬が減っている事に対して、出処の主はまたあの顔をしているのかもしれないが、それも考えない事にした。

(医者って勘良い奴多いんだよなぁ…)

父親としてのレナも含め、最近身の回りに居る他の医者――友人と言って良いのかわからない――の顔が頭にいくつか浮かび、そのどれもがみな、怒っているにも関わらず悲しそうな、本気で他人を心配出来るようなお人好し揃いである事に、思わず笑いが漏れた。

薬の容器をカバンに入れ、代わりに携帯端末を取り出し、いくつかの信号を探して舌打ちをした。
まだ仕事中だと思っていたニキはどうやらすでに帰宅していたらしく、ニキの携帯電話に仕掛けた盗聴器の発信源はニキの自宅を示していた。だがもうひとつの発信源は移動中である。つまり、あてには出来ない。
向かう先がどこかは知らないが――ただふらついているだけかも知れないが――あてにしていたわけでもないが、それを改めて確認し、妙に納得して携帯端末を閉じた。

もう少しで早めのランチの時間帯になる。
人通りも増え、そこに紛れてしまえばもし見つかったとしても相手も簡単には手が出せないだろう。
それにあと数ブロック先の通りを越えれば、茜にとっては友好的と言って良い組織のテリトリー内であり――あまり気は進まないが――今のところ最も安全な近道と言って良かった。
味方…とは言えず、いつ敵対するかも知れないとは思うものの、助けを求めるつもりは無いが、危害を加えられる心配も今のところなく、それが今ほど心強く感じる事は無かった。
ひとつ心配があるとすれば、時間的に遭遇してしまいそうな人物が一人だけ思い当たる点だった。
その人物は先ほど思い浮かべたお人好しな医者のうちの一人でもあり、今の状態で見つかったら間違いなく手を差し伸べられてしまいそうで、そうなったら強がれる自信もない程度には茜自身も信頼を自覚しており、だからこそ彼には見つかりたく無かった。

(クラーク・ケントだからなー、あのお兄ちゃんは…)

苦笑しながらズルズルと背中を壁に付けたまま立ち上がり、茜は呼吸を整えてからゆっくりと歩き出した。

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広い芝生で覆われた丘の上で、ちらつき始めた雪の遠くにビル郡を眺めた。
数時間前までは数メートル先に開いた穴の淵に黒服が並び、胸元に帽子を当てて目を閉じていた。
その中心にある長方形の箱がゆっくりと沈んで見えなくなり、薄い石版となったそこには数本の白い花と雪が薄く積もっていた。
そこから誰も居なくなるまで、少し離れた場所から動かずにそれを見ていた。
去り際の数人に声をかけられた気がするが、何も聞こえ無かった。
周辺から人の気配がほとんど無くなった頃、いつのまにか隣に立っていた見慣れたコートの長身が何か言ったが、応える気も無く、花の置かれたそこへも近寄らず、近くに停められた車の後部座席に乗り込んだ。

――

#6

イリヤとセニアの二人へケイが過去に着けていた分のピアスを片方づつ着けてやり、一息ついた所で茜は目眩がして目を軽く拭った。

「茜、少し寝る?」

イリヤに言われて睡眠不足だった事と空腹感を思い出して頷いた。
空腹感はあるが食事をしたい気分でもなかった。枕元の薬瓶からいくつかの錠剤とビタミン剤を口に頬張り、ペットボトルの水をそれと一緒に一気に飲み干して口を拭い、そのまま倒れるようにベッドに横になった。
昨夜ここへ来るまでろくに寝ていない事と、ここへ来た事によって脳内で巡るいくつものデジャブに、心身共に疲労しきっている事は自覚せざるを得ない。
状況は違うものの、今回の事が過去に自身に起こった事と似ていると、意識しないようにはしていても、そう思っている時点ですでに意識してしまっているのも事実だ。

手足を繋がれて目が覚めたとき、ほんの一瞬困惑した。
ぼんやりと見えた倉庫の光景が、過去に見た光景と重なって夢の続きのように見え、忘れたつもりはないが思い出とも言えない部分の記憶までも引きずり出してきた。その事に怒りが沸いた事で屈せずに済み、自然に体は動いたが、結果ここへ来てしまう事にもなった。気は進まなかったがそれで助かった事も事実だ。

茜は仰向けになって天井のファンを見ながら、懐かしさと苦さの混ざった記憶に引き込まれるように気が遠くなるのを感じ、片腕で顔を隠すように両目を覆って瞼を閉じた。


――

腕の痛みに気がつき、茜は顔を上げた。
視界はぼやけ、瞼は重くて上がらない。手足は痺れて感覚が無い。
声を出そうとしても舌がうまく回らない。唇は凍ったように張り付いて動かない。
顔の圧迫感で顎を掴む手に気づいた。黒くて細長い影が、陽炎みたいにまばらにいくつか揺れている。
首筋に冷たい管の感覚と細い痛みが刺さり、喉が鈍く鳴ったのが耳の奥で聞こえた。
意識がまた遠のいて行き、真っ暗な中で生暖かい何かに体中を這われる感覚がした。
自分の意志とは関係なく口が開かれ、喉に痰が絡まった。不快感で飲み込めず、吐き出す力もなかった。
ただ俯いて、開いた口から何かが流れ出して咳込み、寒くなった。
冷蔵庫の中みたいだと感じて少し笑って顔を上げ、こめかみ辺りの鈍痛と脳が揺れる衝撃で、徐々に状況が見えて来た。

視界でしか確認はできないが、おそらくコンクリート製の床に横向きに倒れた状態で蹲っている。
凍るように体が冷たいのはそこへ体温が奪われているせいだ。
靴は履いていたが両足を揃えて足首のあたりで梱包用テープのようなもので幾重にも巻かれて固定されている。
両腕は背中側で見えないが、こちらも同様のもので拘束されているのだろう。
動かそうにも力は入らず、暴れて無理矢理にでも剥がすというのも現実的ではなさそうだった。
直に床に触れている頬が張り付くようになっているのは、その冷たさと、実際に何かが冷えて固まったものが頬と床を繋いでいたからで、口の周りにもそれと同様のものが乾いて張り付いていた。
その匂いと不快感に嘔吐したかったが、体に力が入らずに咳き込み、乾いた唇が裂けて血がこぼれ、鉄の味が生暖かく口の中に広がった。
意識はハッキリして来ても思考がうまく定まらず、体も弛緩して動かない。寒さのせいだけではなく、おそらく薬を打たれたのだろう。考えたくはなかったが、朦朧とした中で誰かに体を好きにされていたらしい。服はずらされ半裸の状態に近かった。外出する気も無かったために元々下着は着用しておらず、茜はそれを少しだけ後悔した。

自由に動く目だけ動かし、狭い視界の中で周りを確認した。
正面に広がるのは、倉庫のような廃ビルのワンフロアのような光景と、正面すぐ近くに座る人物の膝から下、その少し離れた場所に行き来する数人が見える程度だった。
背後にも数人の気配と話し声、その他に何かの機械音とキーを叩く音が聞こえるが、わかるのはそれだけだった。

何故こうなったのか考えようとしたが脳がまだ揺れているようで考えられず、話し声に耳を傾けようとして無意識に顔を背後に向けようとしたが、頭が上から何かに押さえつけられるように床に戻された。
至近距離の視界の隅に高そうなスーツのズボンの裾と革靴が見えた。それが片足分しかないという事は、もう片方に踏まれているという事だ。意識がはっきりしない中でも同じ感覚が数度あったのも思い出した。
その足の主が何か言うと周りの動きが早くなり、どこかで携帯電話の着信音らしきものが鳴った。その音が止まると同時に頭上の圧力から解放され、その足音は離れていった。替わりに安物のズボンに趣味の悪い柄のシャツに金のごつい腕時計が見え、そこに持たれた注射器が見えた。抵抗しようと開きかけた口は片手で捕まれ、塞がれた。
首筋に刺さる金属の冷たさと痛みを感じ、吐き気と目眩の中でまた意識を失った。

耳のそばで複数の話し声が聞こえ、何度目かの目を開けたとき、何かのレンズと目があった。
髪ごと頭を後ろへ引かれ、首と肩の痛みに低い唸り声が出た。それが聞こえたらしい人物の笑い声が聞こえ、目の前のレンズが顔の横に寄せられた。茜は徐々に脳が鮮明になっていくのを感じ、再度状況を理解しようと努めた。

会話の内容から、相手の目的が茜自身ではなく、そのレンズの向こう側に居るであろう誰かである事が伺えた。
薬を打たれたのも体を使われたのも、それは全て茜に対する嫌がらせでも情報収集のための拷問でも欲情発散の道具としてでもなく、それを不快に思う誰かへの盛大な嫌がらせの過程に過ぎず、つまりは人質のような状態だと認識した。
同時にその人質の状態が『誰かの弱みになるような助けを待つ弱者』として判断されたのだと思い、事実拉致された己に対して怒りが沸き、唇を噛んだ。その事が更に茜の思考を鮮明にさせた。

自分を映すレンズは小型のWEBカメラだ。その先に一台のラップトップが置かれた簡易な机がひとつ。
その他の機材は見当たらず、部分的に崩れたコンクリートの床と壁、柱はほとんどないがある程度の開けた空間、それほど高くない天井には切れかけの蛍光灯、窓の位置から見て、おそらくどこかの廃ビルの角部屋だ。
背後で髪を掴んでいる人物が一人、その後ろは――仰け反らされた時に見えた――窓のある壁際であり、その人物以外は目の前にいる数人だけだった。
気を失う前に頭を踏んだ高級スーツの人物がラップトップのある机の横でパイプ椅子に座り、足を組んでこちらを見ている。その男の隣に一人、机を挟んでもう一人、一人はカメラを持っていて、一人は背後に一人だけ。
腕か足の拘束が無ければ抜け出せたかもしれない。少なくとも人質としての価値を無くす程度はできたかもしれない。
体がかじかんでいようと、薬を盛られようと、相手の攻撃対象が自分にあるのなら、もっと気楽に考えられた。
力尽くでの脱出は出来なくともただ助けを待つ取引材料になるのだけは許せず、無意識に目つきが悪くなり、唇を噛む口の端から血が噴き、その目つきが気に入らないと言ってカメラを持つ人物に下顎から蹴り上げられた。

それを誰宛に送信しているのか、ラップトップの画面までは見えなかったが、椅子に座る高級スーツの男にかかってきた携帯電話のへの内容で大体把握できた。
男はゆっくりと事務的に茜の身体的な状況と、それを揶揄し、相手の失敗点と取引内容、過去の謝罪までを一通り話し、茜の顔へ唾を吐き掛け、満足そうに通話を切った。

その男は困ったように首振って見せ、全てが通話相手の責任だと、茜を見ながら同情するように語りかけた。
興味もない子供相手にわざわざ手の込んだ仕打ちをした事、本当は野蛮な手段は嫌いだと言う事、茜を殺す気は無いから安心して良いと言う事、そこまでしないと動かないケイが悪いのだという事。
そのケイの潜伏先を発見したと思ったらそこに偶然茜が居た事、その前に尾行を巻かれた時にも茜が一緒だった事、そのケイの持っている情報のためにどれだけの損害が出るかなど、スーツの男は雄弁に酔ったように話し始め、茜はそれを見て口の端を歪めて笑った。
誘き出さなければ見つけられない存在相手のやっと見つかった餌に狂喜乱舞のお祭り騒ぎ、もうすぐ叶うであろうその会合に感無量といった雄弁さなのだろうと、相手への同情と哀れみと、まんまとその餌になった自分への自虐気味の苦笑だったのだが、それがスーツの男の表情を消した。

男は足元に置かれていた粘着テープで茜の口を塞ぎ、傍に立つチンピラ風情の男から折りたたみナイフを受け取るとゆっくりと刃の部分を回転させ、茜の眼球から数センチの距離へその刃先を近づけた。が、その目からは恐怖の感情は感じられず、男は舌打ちするとチンピラの一人にナイフを返し、少し離れた窓際で煙草に火を点け、こちらへ何かの合図をした。
さっきまでカメラを持っていた男が近づき、茜は腹にヒヤリとしたものを感じてそこを見た。
腹にナイフが当てられ、茜は一瞬覚悟を決めたが、その刃先はそのまま上へ滑らされた。
服を切られ、靴も脱がされ素足になった。直にあたる冷気に、全身が凍るように冷えて震えた。
その様子がまた撮影されてどこかへ送信されたようだったが、その相手はケイだけではないようだった。

寒さと薬で徐々にまた意識が遠のいて来るのを感じ、茜はよろけて後ろの壁に背を着け、その冷たさに息を飲んだ。
遠くなる意識の中で自然に目を閉じ、近づいてきた足音に目を開けようと、上げた顔と頭部に圧迫感を感じた。口を塞がれたのと同じ粘着テープで頭部ごと目と耳を巻かれ、音も半分以上遠くなった。

おそらくそろそろケイが来るのだろう。チンピラ達とスーツの男達が銃を手にバラついて立ち止まったのを感じた。
そのケイに助けられる事が屈辱に思えた。捕まり、相手の自由に遊ばれ、無防備な餌となって何もできずに助けを待つだけの、力のない弱い立場の自分がたまらなく腹立たしかった。




それからの事は、茜はうっすらとしか覚えていない。
気を失わないようにと、目を塞がれた暗闇と半分の聴覚に集中していても、冷静なつもりで冷静で居られるはずもなく、寒さと痛みに耐えながら意識を保つことで精一杯だった。

大きな音がするでもなく、うめき声と倒れる音がひとつづつ、順番に聞こえた。
茜の寄りかかる壁の頭上の窓ガラスに穴が開き、その割れる音と流れ込む空気で外部からの射撃だとわかった。
数人が倒れ、室内に動揺と鉄の匂いが広がるのを感じた。倒れた数人はおそらく即死だろう。
茜の頭を踏んだ高級スーツの男の金切り声が聞こえ、どこから増えたのか、そちらに向かう数人の足音と共に窓から慌ただしく離れていった。
何かを突き飛ばすような破裂音――外側から衝撃を受けた扉が勢いよく開き、そこから近づいてきた足音が目の前で泊まり、茜の手足は開放された。顔のテープは剥がそうとして躊躇したのか、頭を軽く撫でられ、手に小さいナイフを握らされた。
耳元でそれを伝えられ、それがケイの声だと認識した時、安堵するより先に屈辱感が沸いた。
無理矢理剥ぎ取られ、腫れ上がった顔を笑われる方が楽だった。

凍えて思うように動かない手でやっと顔のテープを切り取り、怒りに任せて一気に剥がし取った。
瞼と顔面に感じる焼ける様な皮膚の痛みと眩しさの中で、ぼんやりと見えて来たのはいくつも転がる倒れたチンピラと血溜り、その奥で、倒れて来たチンピラに押し倒されたその下で、声を上げて藻掻く血で薄汚れてしまった高級スーツの男と、その前に立つ全身黒ずくめにロングコートのケイの姿だった。
ケイは動かなくなったチンピラの下からスーツの男を引きずり出し、目の前にしゃがんで笑いながら何かを言った。
それを聞いたスーツの股間あたりから湯気が立ち、それを見たケイは苦笑しながらスーツの男の胸元から携帯電話を取り出し、その携帯電話でその様子を撮影し、男にそれを返してどこかへかけさせた。
二人が知り合いである事はわかるが、その経緯まではわからない。
お互いに良く知った関係ではありそうだったが、元々の仲間だと言う雰囲気でもなさそうだった。
スーツの男が重要な人物らしき事は、この状況であっても殺されずに済んでいる事でわかる。
その理由は分からないが、もし茜に体力が残っていたら迷わずここで殺していただろう。

窓の外のどこかに居る仲間を信頼しているのか、ケイは武器を手にしていない。
細身のコートの中に隠して居るのかもしれないが、それも確認できず、茜に渡した親指ほどの刃先の折りたたみナイフも、よく見ればチンピラが所持していたナイフだった。

スーツの男が、どこかへ繋いだ携帯電話をケイに渡した。ケイがその電話に出ると、親しげな口調で話し始め、茜の方――窓の外へと手を振って見せた。おそらく仲間への合図だろう。

ケイはそのまま通話しながら立ち上がり、茜のそばへ立った所で茜の表情に気づいた。
ケイが男から離れた時、男は近くに倒れたチンピラの握っていた銃を取り、ケイを狙っていた。ケイがそれに気づいて男の方を向いた時、男の標的は茜に移動し、男の口元が笑ったように釣り上がった。それを見たケイが動揺したのを感じて、男は勝ったと思ったのかも知れない。
その男の指が引き金を引こうとした瞬間、男の額に穴が開き、ケイはすぐに窓の外を見てため息をついた。
出来れば殺したくなかった相手を窓の外の主は打ち抜いてしまったのだ。
おそらくそれまでもようやく耐えて居たのだろう。窓の外から見える位置に移動していた茜が窓の外を眺め、どこからか狙撃していたケイの協力者が、自分の父親であるレナだと気づいた。

茜が窓の外から目線をケイに移動させた時、小さい空気を切るような音と同時に、背中を向けたままのケイが携帯電話を落とした。落とした手からは血が垂れ、ケイは窓の外を見つめたまま動かず、笑っているようではあったがその目線の先は移動していた。
嫌な予感がして茜はケイの名前を呼ぼうとしたが、それが声になる前に、ケイの体が小さく揺れた。

まるでスローモーションのようにゆっくりと自分の方へ倒れてきたそれを、茜は反射的に両腕を広げて受け止めた。



ケイが倒れる前、スーツの男を打ち抜くと同時に、茜の居る廃ビルから少し離れた建物のテラスで、茜の父親であるレナは舌打ちをし、その隣に居た人物は頭を抱えた。
ケイの援護に参加していたのはレナだけではなく、その横にケイの元同僚である本職のスナイパーも居り、最初に他のチンピラ数人を始末したのはこの人物であり、彼はレナがスーツの男――今後の証人となるはずだった人物――を打ち抜いてしまった瞬間に青ざめた。二人はその後の処理とあとでケイに怒られる事も含め、笑顔で怒っているであろうその人物を二人でため息混じりに、恐る恐るスコープから覗いた。
レナが男を打ち抜いてしまったのは怒りのあまりの行動ではあったが、殺すつもりはなかった。射撃の腕は精密とは言えず、いつもであれば少しズレるはずがうっかり命中してしまったのだ。
恐る恐るスコープを覗き直してみると、レンズ越しにこちらを見つめるケイの表情はスーツの男の射殺を怒っているようにも見えたが、そうではなかった。そのケイの目線は自分たちよりも少し斜め上を見ている。
二人で眉をひそめた時、ケイの手から携帯電話が跳ねた。それが床に落ちる前にレナは隣のビルのひとつ上の窓――自分達の居る建物のテラスの斜め上の階――に何かの気配を感じ、ショットガンを打ち込んだ。
隣のスナイパーが声を上げてレナを呼び、レナがケイと茜の居るビルの窓へと視線を戻した時、ケイは茜の方へ倒れ込んでいた。


――

消毒液の匂いに咽せ、茜は目を開きかけ、眩しさにすぐに細めた。耳元でメトロノームのような電子音が鳴っている。
段々と開けてきた視界に、白い天井と蛍光灯、ぶら下がったビニールパックが見えた。
手を動かすと、腕に繋がれたチューブが体の一部のように付いて来た。体が自分のものでは無いように重く感じた。
自分を取り囲むように連なったカーテン越しに複数の気配がする。足元のその一部が開き、スクラブを着た知らない顔がこちらを見て声を上げた。その人物はすぐにまたカーテンの向こうへ消え、頭痛と込み上げて来た吐き気に咳き込んだ。
枕元に見えた機器類の電子音に混り、複数の足音とざわつきが近づいて来るのを感じた。
知っている声も混ざっている気がしたが、そのまま気が遠くなるのを感じてまた目を閉じた。

その後茜は、数日間をその病室で過ごした。
入れ替わりに黒服のいかにもな役人風の男女が話と質問を繰り返しに訪れたが、茜は黙ってただ過ごした。

彼らはケイの元同僚――CIAの知人だと名乗っていたが、その話によればケイはずっと彼らに行方を捜索されていたらしい。
ケイはCIAを辞める際、ある事件に関連した情報や証拠を握っていた可能性があり、その後NYに拠点を置いている事以外の情報が無く、ようやく発見されたのは数日前、茜が拉致された事でケイが直に彼らに連絡を入れた時であった。


ケイが持ち出した情報は、彼がまだCIAに入って間もない頃に関わった事件に関係していた。
それは一度大々的に解決し、一部関係者は昇級にまでなったが、ケイはその結果に納得はしていない様子で、すでに解決済みに分類された後もその内容をその後数年間、時間さえあれば調べ直していた。
その事は当時の友人も含めて周知しており、片手間であればと、組織内に数名の助力者も居たが、それでも新たな有力情報には至らなかった。それがある日、ケイは何かがふっきれたように自身の部屋からその事件に関するファイルを片付けた。その様子を見た同僚たちは、ようやく諦めが着いたのかと笑いあったが、ケイはそのまま退職した。

組織に残された彼らがケイと連絡を取れなくなった頃、その事件に関連した情報の漏洩が発覚した。
最初はケイが疑われ、それによって捜索も行われたが、それとは別に内部での情報操作の痕跡も発見され、元同僚たちは更に彼の搜索に力を入れた。
ケイから彼らへと直に連絡があったのは、茜がスーツの男達に拉致される数日前だった。
一部の元同僚達の携帯端末へ、重要参考人を引き渡すので協力して欲しいと、その相手の詳細と現在地が転送されて来た。それが決定的な証拠とは言えなかったが、それはその重要参考人――スーツの男から聞き出せるはずであった。


ケイが過去に所属したチームが解決したはずの内容は、当時の情報屋の協力と内部告発で発覚した、ある闇組織の行う児童売買、および幼児ポルノの流通の一斉摘発だった。

その流通関係者が集まるとされる日、その建物を含めた周辺地区――ある港に面するコンテナ倉庫群――に集められた彼らの『商品』――多くが行方不明とされていた10歳前後の未成年者に関わるもの――を含むほとんどが、潜入捜査員の手引きによって押収された。
それは見るに堪えない行為の行われている映像やそれに使用された道具類、その行為に関わった証人を特定する事も十分に可能であり、買い付けに訪れていた大多数を関係者とする充分な証拠品となった。それによって司法取引に応じた数名の発言により、そこへ資金提供や道楽の一貫として関わっていた一部の政治家や権力者の不正行為も発覚、更に多くの情報操作や不正取引の関係者なども摘発される流れとなった。

その大々的な摘発劇により、その闇組織は壊滅状態となり、一時はメディアでも騒がれたがそれも長くは続かず徐々に沈静化、そのうち表から消えるように無くなっていった。
事件に関わっていたとされる政治家や権力者もほとんどが証拠不十分とされ、判決によって賠償請求や司法取引に応じた結果数日で釈放されるなど、釈放後には名誉毀損を訴える者まで現れた。
結果、再調査も含めた全てが打ち切りとなり、それによって組織上層部への不信感や圧力を感じる者も居た。


ケイが退職後、NY――ブロンクス地区のある一角に拠点を決めたのは、その当時の事件関係者のオフィスが近かった事と、CIAに入る前の昔馴染みがその地区に多かった事、なにより好都合だったのは、偶然にもレナがその地区から遠くない場所でゴロツキ相手の地下医院をしていた事だった。情報収集も臨時のボディガードも、訳有りの患者同士であれば金額次第で相手も構えることなく応じてくれる事が多い。
生まれ育った場所とは違うが、多少の不審人物や路上の小競り合いも日常茶飯事で、チップ次第で住人達もさほど気にせず、いかにもな訳ありの格好であっても自然に馴染んでしまえる空気も都合が良かった。

その時はレナに娘――養子ではあるが――が居るとは思わず、その子――茜が政府の情報漏洩にも関わった人物であり、さらに自分と深い関係にまでなってしまうとは思ってもいなかった。

ケイは退職する少し前、証拠品の中に一つのリストを見つけていた。
それはある船便の商品リストであったが、当時取引されていたモノとの数がはっきりと確認も取れぬまま、それについての詳しい調査も中断されていた。その意図は分からなかったが、その存在を知るチームが昇級となったのは上層部に対しての口封じも含まれていたのかも知れない。
リストに名のある――ほとんどが偽名にされているであろう――者達は恐らく未成年であり、それがもし海外へ送られたにしろ既に死体となっているにしろ、その存在を知りながら無視し続ける事は出来なかった。
もし架空の存在であったとしても、存在していない事を確認できるならそれで良かった。
それを詳しく調べるには、当時の事件など無かったかのように元の生活を送る権力者たちを調べる必要があり、政府に関係する組織に属していては少々不都合な部分も多かった。
退職を決めた理由は他にあったのだが、それを明確にしたいという気持ちも切欠のひとつであった。


寒波の前――レナと茜にNYを離れると伝えに来る前日、ケイはそのリストに関わるある人物の存在を確認していた。
はっきりと特定するまでには至っていないが、その人物は過去の一斉摘発時に運良く天候によって船での到着が遅れ、その船で搬送中だったリストの中身を持ったまま行方をくらませ、当時の摘発を逃れた一部の人物達と共に地下での流通再開を進めようとしている、というところまでは確認していた。
ケイがはっきりとした情報を掴んだのはレナの医院に訪れた際、偶然運び込まれて来た口の軽い怪我人が治療中に口滑らせ、数日後に大きな取引があるらしいので彼らのボス達が騒がしくなっている、という事を聞いてからであった。
ケイはそのボスの名をさりげなく聞き出した事で確信に至ったが、その件が外部に漏れ、その件について調べている人物が居るらしいという事もその場に居た他の情報屋によってそのボスの耳にもすぐに入っていた。
ケイが茜と過ごしていた数日間で相手はケイの事を調べ、居場所の特定をし、そこでの姿を確認するまでに至った。
ケイは念願が叶ったような安堵と数日後への不安のせいか、すぐに帰るはずが寒波も重なった事で長居してしまい、その数日に得た久々の幸福感に似た気分に酔ってしまい、近所の売店へ出入りするほど隙まで作ってしまっていた。いつも通り長居せず、自身の作業場所である地下の部屋へ戻っていれば見つかっては居なかったかも知れない。

寒波が落ち着き、茜が寝ている間、ケイはそのまま居なくなるつもりだった。
そのままであっても不安は無いと思い込んでいたのも、何の警告も警戒もなしにそこを離れてしまったのも、自分からは知っている相手に自分も知られているとは考えが及ばないまま、数日の間に油断しきってしまっていた自分のミスであった。緊張感の無いまま自身の地下室で荷造りをし、そのまま去るつもりが当然のように再度同じ場所へ足を向けようとしていた自分にむず痒い笑いまで溢れ、その気分のまま受けた携帯電話の着信で目が覚めた。
それは娘を連れ去られたと勘違いしたレナからの怒号であり、否定しようとした瞬間にケイは状況を把握し、急激に緊張感が襲ってくるのを感じ、レナもそれをすぐに察した。
ケイはその通話を切ると同時に転送されてきたある映像を確認し、携帯端末を破壊し、地下室を封鎖した。

その映像は、今朝までケイの居た場所で送信相手が偶然見つけたモノ――茜――の置かれた状況を伝えていた。

ケイから連絡のあった元同僚達はすぐに機材や武器を揃えて指定の場所へ向かい、ケイとレナに合流した。
相手とケイの通話記録を辿り発信元を探っている最中、それに気づいた相手から数回、通信端末機へと映像が送られてきた。それはケイへの警告と、自分の欲を満たすための行為が撮され、交換条件が文章で添えられていた。
その時点では取引場所の指定はされていなかったが、ケイは茜の居場所をすでに特定していた。ケイの手元の携帯端末機にには地図と途切れ途切れに点滅するポイントが示され、彼らの乗っている作業車はすでにその近くへと向かっていた。
複数の理由から発狂寸前のレナが黙ってケイの元同僚達と周辺地図を確認していたのは、ケイが手元の点滅を見つめながら何かをメモしていたのを見たからかも知れない。

茜を拉致した相手はケイの操作する端末にアクセス出来てはいたが、最初の携帯電話へのGPSを壊されてからは正確な居場所の特定まではできて居なかった。なのに確実にケイはこちらを把握して向かって来ている。
その焦りと無意識の恐怖から、脅迫めいた事がエスカレートしたのかも知れない。
茜本人も気づいては居なかったが、追跡装置の微弱な発信元は、数日前にケイが送った茜のピアスだった。

茜が居るであろう建物へ辿り着いた時、ケイは車を降りた瞬間にチンピラに襲われ、その襲撃者の手にした無線によって、目的の相手がその無線の先――そのチンピラの見張っていたであろうビル内だと確認できた。連絡の取れなくなった手下の無線によってケイ達の到着は相手にも伝わり、その無線からケイへ、彼らの求める取引内容が伝えられた。
その無線での通話中に向かいの建物へ仲間――志願したレナも含む――を配置させてはいたが、条件としての『一人で丸腰で』という約束にケイはあっさりと従った。
人質としての効果が無くなるため、茜の命が奪われる心配は取引終了までは考えられないとの判断だったが、それでも万が一を考た仲間の心配も笑って否定し、ケイは相手に言われた通りの丸腰で建物へと入っていった。

指定された階の部屋の入口にケイが辿り着き、ボディチェックを受けていた時、向かいのビル内での仲間も準備が整っていた。建物内での主犯である人物を確認、現場の状況の撮影、その写真から作業車内でその身元までを特定した。
今まで確立した証拠は無かったが、今回の件が確実なものとなり、ケイにも念を押されていた通り、その人物は重要参考人として必要な人物だった。

その主犯――高級スーツを纏った神経質そうな男――は、ある大物議員の甥にあたり、数ヶ月前まで海外赴任という事になっていた。

茜を拉致して数時間後、NYから数時間ほど車を走らせた距離にある政界関係者向けの会員制ヨットクラブ内で、その男の所有するクルーザーから、男の大切にしていたモノが消えた。
その情報を部下から受けた時、男は焦り、一部の親族――叔父である議員へと連絡をしていた。
その発着信記録は男の携帯電話が破壊された事で失われてしまったが、後日CIAによってその通話内容まで明らかにされた。
それは男が何度も助けを懇願し、その都度――内容を聞いた上で無言のままに通話を切られているという内容だった。
茜に暴行を加えた映像をCIAやケイに送りつけていたのは、既に自らの置かれた状況を把握し、逃げ場が失くなった事での最後の盛大な嫌がらせ行為と、最後になるであろう楽しみを味わう為だったのかもしれない。

ケイが茜の前でスーツの男にかけさせた電話の相手は、その叔父である大物議員だった。
甥の安全確保と情報の交換、まだ元同僚達へは渡していない情報と、政府上層部への警告、公開しない替わりに二度と手を出させない約束を取り付けていた。
そのはずだったが、その重要人物を失って交換不成立となった瞬間、ケイも撃たれた。
レナが自分達以外の狙撃手の存在に気づき、そこへショットガンを打ち込んだ時、ケイは既に倒れ、その目線の先へレナが辿り着いた時、そこには薬莢がひとつ残されていたのみで、それ以外には人の気配は感じられず、後日の調査でも不審な人物の存在や証拠となるもの――目撃情報や防犯映像からの確認もできなかった。
ケイのすぐそばに居た茜が無事だったのは、レナに存在を気づかれた狙撃手が慌てて逃げたためか、生かしておいても危険は無いと判断されたためかはわからなかった。


――

茜が退院した日の昼過ぎ、郊外にある丘で、雪がぱらついて降り始めた薄暗い中、ケイの葬儀がひっそりと行われた。
親族はおらず、元同僚を含めた少人数での小さな式だった。

茜はその輪の中へは参加せず、少し離れたところからそれを眺めた。
涙するような悲しみも感慨も無く、あるのは自分への少しの後悔と悔しさ、そしてそれを上回る怒りと、憎しみに似た感情を感じていいた。
式の終了後、ケイの元同僚から声を掛けられたが、どれも耳に入らなかった。

しばらくして迎えに来たレナの車に乗り、あの寒波の日にケイから受け取った封筒を開いた。
中から取り出したUSBメモリをラップトップに差込み、一緒に入っていた一枚の紙を広げて一瞥し、レナに渡した。
レナはそれに目を通してから折りたたんでコートの内ポケットへ突っ込み、車のエンジンをかけた。
茜はラップトップに表示されたものを確認すると、そのまま画面を閉じ、窓に寄りかかるようにして外の風景を眺めた。

倒れて来た生暖かい塊りが冷たくなるまで、それを抱いていた。
背後から抱いているそれを裏返してまで見ようとは思わなかったが、それを握る手には力が入った。
複数の振動と耳鳴り囲まれ、引き離されたそれを掴もうとして叫んだ。
かじかんだ指はうまく開かず、張り付いていた唇が裂け、喉に入った冷気に咽せた。
声にならない声は出せるが、乾ききった目から涙はひとつも溢れない。知らない声に混ざって自分を呼ぶ声が聞こえたが、それが近づいて繰り返すのが煩かった。耳の奥が滝のように鳴っている。
浮くように体が軽くなり、顔に当たった光の方を向いた。遠くの窓が眩しく見えた。そのまま歪んで遠くに消えた。


――

#5


「茜は、なんでケイが嫌いなの?」
「はっ!?」
「嫌いだって言ってなかったっけ?違った?」
「んー!今はそんなでもねー…かなっ!?」

(嫌いじゃねーんだけど、説明すんの面倒くせーな…)


茜が久々に訪れた場所で懐かしさに浸りきる寸前、そんな自分を見透かすように覗き込んできたイリヤの視線と質問にギクリとして思わず顔を赤くして大声になった。それに続くセニアの確信犯な問いは、目を逸らしてどこか怒っているようにも感じられる冷たい口調で、どちらの言いたいことも間違ってもおらず、何が言いたいのか分かりすぎるほどにチクリとして、茜はさらに大声でセニアの背中を大げさに叩いて誤魔化しながら、それでも嘘は言えなかった。

二人の住む地下室へ来なくなった理由の大半は、ケイの行動を許せなかったからであり、今でもそれが許せることだとは思っていない。それが茜を思っての行動であったとは理解しているつもりだが、頼んでもいない勝手で自己満足な行動に怒りが湧くだけで、悲しみや罪悪感は今まで感じる事もなかった。

確かに怒りがあって、許さないと思い、それが憎しみにも似た感情にまでなった。
怒鳴り散らしたい相手が不在では怒りのやり場も見つからず、自分の弱さにも腹が立ち、手頃な喧嘩相手を求めて柄の悪い連中の溜まり場へ向かっては、手当たり次第のゴロツキへ喧嘩を仕掛け、返り討ちにされた。
勝ち負けは関係なく、ただ殴り合いがしたかった。ただ誰かに遠慮なくボコボコにされたかった。
見た目が女のままでは手加減をされたり、喧嘩とは違う目的で捕まったりしたため、伸びて邪魔な髪はバリカンで刈り上げ、服もすぐボロボロになるため、動きやすく丈夫な作業用のツナギを着るようになった。
元々の細身で筋肉質な体型も手伝い、古くから良く知る人物以外には初見では女性とは思われず、その時季に活発化していたギャング同士の抗争地帯にうまく紛れ込み、望んだ通りに遠慮のないゲームのような日々に進んで身を投じ続け、体力の限界まで、自分か相手が動かなくなるまで拳を振り続けた。

現在の茜の交友関係のほとんどがその抗争中に出会ったもので、ニキも含めて最初は敵として、そのうち良く合う喧嘩仲間として、そして今では日常的に笑い合える仲間にまでなっていた。
その仲間もそれぞれが自分の仕事やファミリーや雇い主を持っており、その内容如何では、いつ敵側として遭遇してもおかしくはないが、その時にはお互いに遠慮せずにやりあう事を望む連中であり、だからその瞬間までは、友人として背中を任せられる。そんな信頼と安心感があった。

その交友関係はその場で本気でやりあえたからからこそのもので、ケイに対するあの感情が無ければ成り立っておらず、複雑な思いもあるが今では少しだけ、感謝に似た気持ちも感じている。

一番の副産物は、目的は違っていたがいくつかの修羅場を乗り越える結果にも繋がったために、当時よりも大分肉体的には強化され、いつのまにか弱くもなくなって居た事だ。
仲間内では対して強いとは言い切れないが、当時の口と度胸だけの弱い自分とは比べ物にならない。
共闘やサポートくらいはするかも知れないが、自分も含めた彼らには守って貰おうなどという思考がそもそも無いのだ。貸し借りか仕事か、楽しそうだったからという理由でしかきっと動かない。

守られることも守る必要もない、その関係が茜にとって、今まで感じたことのない心地良さであり、あの頃のケイがただ守ろうとして利用した茜とは、考え方も立場も全く違うものになっていた。
ケイは、茜を守る事で自分の目的を託し、勝手な脚本通りに綺麗に自己完結をしたのだ。
勝算の無い自己犠牲への躊躇いがなかったのも、迷わずにそこへ立てたのも、託す相手を見つけた安心感からであったが、茜はそんな信頼感は欲しくもなかった。


(あいつは結局、死に場所探してただけなんだよな…)

随分昔のように感じる人物の面影を思い出しながら、なんとなくむず痒い気のする耳たぶに触れると、左右ふた組づつ付けていたはずのターコイズのピアスが、左右どちらもひとつになっているのに気づいた。
昨日殴られた時か逃走中か、ピアスホールが裂け、そのどちらもが固まった血で塞がっているのが、指先の感触で分かった。

「…?あー…?」
「ああそれ、耳千切れそうになってたから、こっちに…、何?」
「いや、あー、それ、お前らにやるわ。取れたやつ片方づつ。な。」

イリヤが茜を応急処置した時に外されていたひと組は、サイドテーブルの灰皿の中に置いてあった。
それを見てある事を思いつき、茜はピアスを消毒薬で拭いてから、二人に片方づつ手渡した。

「なんで?」
「いーからいーから!」

訝しげにピアスを見つめるセニアには半ば強引に握らせ、茜は勝手に満足げに何度も頷いた。

(形見分け、ってゆーんだよな、こーゆーの…)

セニアとイリヤは知らない事だが、今まで茜の左右の耳それぞれにひと組、ふたつづつ刺さっていたピアスは、どれもケイから貰った物だった。



―――



ケイと親しくなってから数ヶ月経ち、自宅と地下室の往復ですっかり歩き慣れた通りには、リースやモミの木、オーナメントの屋台や電飾がひしめいていた。
積極的に参加したいとも思わない行事だが、毎年父親――レナが何かしら用意しており、その時季すっかりファンシーになってしまっている医院へと訪れる強面の連中に若干の申し訳なさを感じつつ、茜はリビングのソファでラップトップを弄りながら窓の下の医院の入口を見つめていた。着けっぱなしのTVからは雪の予報のアナウンスが流れ、空を見たがまだ降っては居らず、雲も薄明るかった。

それを階下で聞いたのか丁度午後の診療が一段落したのか、レナが一旦自宅に戻り、夜までには帰ると言ってどこかへ出かけて行った。
顔も見ずにいつも通りの生返事をすると、気配もなく背後から伸びてきた腕に突然首を巻かれ、茜は反射的に思い切り頭突きをした。手加減しなかったのは相手がレナだと思ったからで、腕を離した相手のうめき声が違う事に気づいてソファの背もたれから背後を覗くと、鼻先を抑えて仰け反っているケイが見えた。
レナが扉から出る時に、入れ違いで来訪したらしい。
紛らわしい事をするなと茜は呆れたが、ケイは懲りずに隣に座って腰を抱いてきた。それはもう慣れたことで、抵抗も照れもなかったが、むず痒さはあった。平静なふりをして何の用事で来たのか聞いた。
レナから薬を貰って少し話したら帰るのが常で、レナが不在となれば特にここへは他の用もないはずである。

はぐらかされるかとも思ったが、ケイはわざとらしく思い出したように、持参してきた紙袋を漁って小箱を取り出し、それを茜の手の平に乗せた。
数日早いけど…とケイが言い出す前に、茜はその小箱の包を破って蓋を開け、怪訝な顔でケイを見上げた。
そこには小さなターコイズの石がついたピアスがひと組入っていた。
もしかしなくともそれは、この浮かれた時期の習慣に関係したものであり、家族以外からあまり受け取ったことがないものであり、しかもその当時の茜にはピアスホールも無かった。

それを承知でご丁寧にニードルまで持参していた事に茜は驚いたが、どーするかと聞かれても断る理由もなく、その数分後にはピアスは両耳に収まってしまっていた。
そして自慢げに自分の耳元の髪をかきあげるケイを見れば、その耳にも全く同じものが付いており、茜は再度飽きれざるを得なかったが、ケイが満足げに自分を見ているのを見てつい笑ってしまった。

その他にも紙袋からはいろいろ出てきたが、レナの友達というのを納得せざるを得ないようなベタなオーナメントばかりであった。その中からさらにマトリョーシカのように出てきた宛名のない手紙のような封筒を見つけた。小さくて薄い何かが入っているようで、振るとカサカサと鳴ったが、それはすぐに取り上げられ、別のカバンへ戻さてしまった。それが少し気になったが、ケイに指さされた窓の中に降る雪を見て、思わず窓の方へ飛びついてしまった。

レナが出かけてから数時間、雪雲で日暮れが早く感じていた頃、どこまで出かけたのか分からないが帰宅困難になったらしきレナからメールが入った。車の調子が悪ければ、帰宅は翌日の昼になるらしい。
その事を伝えるとケイは少し困った様子の素振りで考えていたようだったが、すぐに気を取り直し、二人きりだとからかって来た。後ろ抱きにされた茜が軽くあしらいながらも帰らないのか聞くと、一応レナにも話があり、夜には帰宅と考えていたので待っていたので、どうするか迷っているという。
妙に勿体ぶった口調をしたので聞き返せば、茜にも話すつもりの内容だったので先に話すと、ソファに横向きに座り、先に話す代わりに茜に自分の膝に向かい合わせに座るよう要求してきた。
いつもであれば断るのだが、その時はなんとなく従った。
素直にそこへ座った茜にケイは少しだけ驚いたが、そのまま約束通りに話をするよう促され、苦笑しながら言い難そうに従った。

ケイはあと数日でNYを離れ、仕事の都合上行き先は言えず、その後の機会もあるかどうかわからないと言う。

いずれはそんな事になるのだろうと会った頃から思って居たと茜が応えると、ケイは驚いた。
驚いてはいたが同時に安心した様子で、さっきカバンへ仕舞った宛名のない封筒を取り出して茜に渡し、レナが帰ったら渡して欲しいと言った。その顔はいつもと同じように薄ら笑った顔で、続く言葉もいつも通りのふざけた口調で、でもどこか寂しそうに見えた。

どういった事情でここへ来てここを離れるのか、言われない事以外は聞こうとも思わない。
怪しいと感じたら自分で調べるだけだが、そんな感じもしない。そこでふと、あの地下室はどうなるのかと思った。自分はあの場所と機材の内容と使い方を知ってしまっているが、あの設備も消えてしまうのだろうか?と、茜は少しだけ未練がましく思った。
だからまたただの気まぐれで、それに少しだけ感傷的なのも加わってしまったのだろう言葉が出てしまった。
まったく自分らしくないとは思ったが、餞別替わり、くらいのつもりだった。

レナがこのまま帰らなければ食事係が居ないので、ディナーを作るなら泊まって行っても良い。と、それを聞いたケイの顔が驚きと照れが混ざったようなものになり、余裕なくしどろもどろ言いながら頷くのを見て、茜はしまったと思いながら、釣られて同じような表情になり、下を向いた。
深い意味は考えていなかったが、その言い方ではそう捉えても仕方ない事で、否定もしきれなかった。
茜は下を向いたまま、ケイの顔が近づき、腰を抱かれて頬に口が触れるのを感じた。

最初にケイの地下室へ行ったときに勢いで関係を持って以来、お互いに好意は感じてはいたが、触れ合うことはあってもそれ以上の事はあれっきりになっていた。茜がそれを鮮明に思い出し、ケイが軽く触れるだけでも過剰に反応してしまう事にはケイも気づいており、それで余計に踏み込めなくもあったが、それより深入りを拒んでいたのは、お互いにいつか必ず離れなければいけなくなる事への、お互いへの無意識の予防線のようなものでもあった。それが、離れる事が具体的になった事で緊張が解けたのか、逆に高まったのか、以前の勢いやテンションとも違う空気の結果になった。

肩に頭を乗せたまま暫く動かないケイの背中に、茜は腕を回して軽くたたき、自分の用意してなかった分のプレゼントはこれでチャラだと言った。それを聞いたケイが首元で吹き出すのを感じ、再び顔が熱くなって来るのを感じてイラつき、そのままケイをソファに押し倒し、重なるようにして上に乗り、シャツの襟首を掴んで強引にキスをした。

その頃いつも会っていたのはケイの仕事場である地下室で、茜の自宅で長く一緒に居ることも珍しかった。
コードや機材に囲まれたコンクリートの無機質な部屋と違い、いたって普通のマンションの一室、しかもリビングで一緒に居るという状態も二人にとってむず痒く、いつもと違う雰囲気にさせた。唇を離したとき、正面から目を見て、ケイが茜に囁いた言葉があったが、茜はそれにすぐには応えられなかった。それはそれまでにも何度か言われた事もあったが、いつもの軽口や冗談やからかいの一種なのだと思ってい、相手にしたこともなくただ聞き流していた。なのにこの時のそれは、確かに同じ一言のはずなのに重さを感じさせ、その意味を認識してしまったら自分が壊れてしまう気がして、茜は突然怖さを感じた。ケイがそれを察したのかどうか、応えを待たずに再度唇を重ね、目を閉じて茜を体ごと抱き込んだ。

しばらくはそうしてお互いの体温を感じていたのが、ふいに思い出したように空腹感で茜の腹が鳴り、ケイは笑いながら約束通りに食事を作った。だがそれは食えなくもないがお世辞にも旨そうだとは言えないもので、その見た目に驚きつつもひとくち口に入れた瞬間の茜の予想通りの反応を見たケイは、レナ医院へ通うついでのいつもの自宅への訪問の半分は、食事にありつく為でもあったのだと告白した。
そして結局ピザの注文を取る事になったが、それを待つ間に二人でTVを見ながらソファで盛り上がってしまい、ピザが届いた時には慌ててガウンを纏ったケイが対応し、茜は戻ってきたケイを見て爆笑した。そしてそのまま、食事をしながら求め合い、二人でシャワーを浴び、客室にある広いダブルベッドに転がり込み、ありふれた恋人同士のように笑いながら触れ合い、翌朝まで過ごした。

いつのまにか眠り、昼過ぎに電話のベルで起こされたケイがレナの立ち往生を知り、電話を切ってから二人で窓の外を見ると雪で全てが埋まっていた。前日にろくに見ていなかったTVを思い出し、NYが氷河期のような大寒波にあっていると知り、ケイがその日の夜のフライトでそこから去る予定だった事を茜は知らされた。そしてその予定も変更になり、困ってもいないような口ぶりで困ったと言いながら茜を抱えまたベッドに戻った。

寒波の影響とレナの不在でお互いに予定外ではあるが、別れまでの数日間だけ、恋人としての時間を過ごした。
茜がそれまで関係を持った相手は恋人とは言えず、ニキ――恋人とは言えない関係だが――に出会うまでもそれと似たような関係の人物も居たが、過去の恋人だと茜が認識しているのは、この時のケイだけだった。
今にして思えばその数日間が一番平凡で幸せだったのだろうと、茜はそう思うと同時に、どうしてもそれと付いて回る暗い思いも湧き、素直に綺麗な思い出とは言い難かった。



二人で過ごした数日後、寒波の影響も段々と落ち着き、窓から見える通りにも雪かきをする人も増えた。
地下鉄の出入り口を上がってくる人数も徐々に増え、交通網も大分回復しているのか、少なくはあるが車もまばらに通りを通過していく。客室のダブルベッドで目を覚ました茜は、隣に残っている温もりと、そこにあるつもりで手を伸ばした先に無いモノを確認して毛布から顔を出した。サイドテーブルには食事の買い出しと街の様子を見てくるという内容のメモがあり、ケイが無言で去ったわけではなく、まだここへ戻ってくるつもりがある事と、レナの帰宅もまだである事を確認して安堵し、服を取りに行くために毛布を頭から被った状態でリビングへ向かった。
散らばった服を集めて自室に戻り、着替えとラップトップを持ってリビングに戻り、服を着ながらコーヒーを沸かした。
おそらくケイも飲んでから出て行ったであろうコーヒーは冷め切っておらずにすぐ沸き、出て行ったばかりならまだすぐには戻らないだろうと思い、ソファに座ってTVをつけ、ラップトップを開いた。

ケイと寝室ですごした事で、丸二日間の情報がほとんど欠けてしまっている。レナの不在によって医院の方も締め切ったままになっており、出入り口に下りたシャッターには不在中の張り紙がされたままになっていた。ほとんどの患者は、寒波の中で辺鄙なここへ来るよりも最寄りのクリニックへ向かうだろうとは思っていたが、ここにしか来られない事情のある者も少なからずおり、茜は念のために医院出入り口と自宅付近の防犯カメラをチェックした。常連に混ざった見慣れない顔が数人、同じ背格好の人物が通りすがりも含めて複数回、モ二ターの中に写っていた。初めは初診のゴロツキだろうと思ったが、カメラに一瞬気づいたその人物は、それより数回――リピートもして確認してみたが、通行人としても写っていた。その確認中にもライブカメラに写っていたのだが、茜はそれに気がつかず、自宅の出入り口の来客を告げるブザー音でそちらを向き、鍵を持たずに出て行ったらしき待ち人の帰りを出迎えに扉へ向かった。


――


レナが帰宅した時、扉は施錠されていなかった。
自宅には誰も居らず、すぐに目に入った散らかったリビングと客室を見てショックを受けると同時に頭へ血が上り、ケイへ電話をして通話になると同時に怒鳴り散らした。ケイは食事の買い物のついでに自分の作業場所である地下室へ寄り、数日遅れた分の荷造りをしていた。電話越しのレナへはすぐに戻ると言って適当に謝り、その事を茜へも伝えてくれるようにと伝えた。その瞬間にレナは、茜の愛用のラップトップが無く、上着は全て残っている事に気がついた。ケイと茜は一緒に居るものだと思い込んでいたが、ケイはこちらに茜が残っているのだと思っている口振りだった。
何かを察したレナは冷静になり、それをケイに伝えて通話を切った。

ケイはレナと通話していた携帯電話を、通話終了と同時に壁に叩きつけて壊し、トイレに流して捨てた。
代わりにカバンから携帯端末を取り出し、それを操作しながら作業場所である地下室を厳重に施錠し、地上に出てから公衆電話を使い、通話相手の留守電にメッセージを残してからタクシーへ乗り込んだ。
レナは自分の経営する医院に向かい、氷が付いて固くなっていたシャッターを力づくてこじ開けた。
そこに待っていた常連には目もくれず、診療台の横にあるベッドの下から大きめのボストンバッグを取り出してそれを肩に担ぎ、いつも座っている診察用の椅子の脇に立てかけてあるショットガンを手に持ち、それに付いて入ってきた常連たちと開けた扉はそのままに、無言のまますぐに出て行き、医院裏手の駐車場から猛スピードで車を発進させた。


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